冷淡な眼差し ー 薛大勇監督作『SADE』『私の恋人』『四次元悪魔』『A dogʼs life』
以前楠城監督への批評の際【ショットの客観化】ということに触れました。今回の薛監督への批評でもこのことについて分け入る必要があります。楠城監督も薛監督も僭越ながら僕が特集を組みましたが、組んでみた後で自分の好みがはっきり分かったような気がします。どちらの監督も徹底した客観性、つまりカメラの記録性というものを十分に理解しているように思います。
これまでの批評でも度々記述してきたことですが、工場前をただ記録していただけのカメラは、カットバックやクロースアップ等の技術革新を経て映像言語を獲得していきました。しかしカメラという機械の根底には記録性と自動性がつきまとっているということ、この事実は変わりません。
薛監督のショットの組み方にはこうした事実への理解が裏打ちされているように見えます。すなわち、そこで起こる現実を異様な編集や物語モンタージュで誤魔化すわけではなく、ただただ記録していくという姿勢です。また特長的なのはその距離にもあります。丁度つま先から頭のてっぺんまでをすっぽり収めるサイズは、彼の映画のどの箇所にも通底しています。
こうしたショットを見て思い出されるのはやはりエドワードヤンではないでしょうか。薛監督とルーツが同じ台湾の巨匠は、あまりにドライな、客観的ショットを積み重ねる監督でお馴染みです。エドワードヤンがそのような、ある意味で非人間的な撮り方をするのは彼自身の信念や思想故であり、ヨーロッパ映画とは異なる情感でもあります。言葉を選ばないのであれば【東洋的】とも言えるし、或いは【Life goes on】の信念が徹底されているとも言えるかもしれません。名匠のど作品においても、人間を人間としてではなく一種の動物のように捉え、遠く離れたところから観察している節があります。
影響を受けているからか、ルーツを同じくしているからか、とにかく薛監督の映画にはこうした巨視的かつ無私的な時間が流れています。大仰にアップして筋や人物の感情を捻じ曲げたり、意味を押し付けるたりすることはありません(無論そうした手法は一方で、非常に映画的でもあります)。個人の葛藤や主体というものに目一杯着目してしがみ付こうとする一般的なヨーロッパアメリカ映画とは違って、大局的で諦念的な、それでいてより抽象度の高いものへ至ろうとする映画と言えるのではないのでしょうか。【引けば喜劇寄れば悲劇】という一面的なショットにまつわる言明をさらに深化し、考察した痕跡が彼の作品には残っています。
往々にしてこうした映画はつまらなくなってしまいがちですが、退屈さに陥らないのは、薛監督独特の演出と筋書きがあるからです。彼の映画には必ず、単なる会話劇や日常劇では割り切れない奇妙さが侵食してきます。シンプルで機知に富んだ奇妙さは日常を表面的なものに終わらさないどころか、より一層娯楽性のあるものにしている。映画の作り方としては勇気と自信のあるやり方だと思います。
ここで、文字数の制限上それほど多くを語ることはできませんが、簡単に今回の上映作品について触れておきます。
『SADE』
スチルで進むこの映画は極端に情報量を減らしています。暴力的とも言える省略は余白を生み、形式に詩情をもたらしているようでもあります。フィルムの切り替える音と、文字情報といえば数行の字幕のみ。しかしながらそれらの少ない情報から、私たちは途方も無いストーリーを思い起こすことができます。それは日本と台湾にまたがる歴史であり、薛監督自身の紀行であり、映像詩でもあります。
『私の恋人』
個人的に最も好きな作品です。この映画を初見して考えたことはタイトルの意味についてです。この映画はあるカップルが1人の男と遭遇するところから始まります。その男は彼氏の整形前の顔にそっくりで、3人は短い会話をする。
これだけでは単なる出会いの物語です。しかし最後30秒で観客は置いてけぼりにされます。私はこのラストを見て暫く考え込みました。映画の内容がフォーカスしているのは2人の瓜二つの男についてなのですが、形式の方はあくまで彼女の方へ焦点を当てています。そうしてああいう突き放すようなラストを描くのですから天晴れとしか言いようがありません。女はラスト、2人の男を差し置いてどこかへ去ってしまいます。他方で男二人は抱擁を交わします。
既に説明したドライな演出も相まって、男女の心理というのは全く腑に落ちませんし、明かされもしません。前批評の小池氏の言葉を借りるなら、人物の心に関する問題は宙ぶらりん、「サスペンド」された状態であり、しかも御預け状態であることが最後に判明します。振り返ってみた時に吊るされていることに気がついて、慌てて過ぎ去った物語を必死に反芻してみる。あのカットバックは何だったのか、ナレーションに何かヒントはあったか……。女は何故立ち去ったのか。恋人に時々感じる気味悪さ故か、それとも今まで理解できていた人が急に分からなくなったのか……。「私の恋人」という彼女視点の題名もそうした遊び心ある作りの一環であるように思います。
そして何より、主演女優の落ち着きのない芝居がミューズを予感させるほどに瑞々しく、ずっと見ていられるような気さえ起こさせています。
『四次元悪魔』
【四次元】という単語は無論アカデミックな由緒のあるものですが、古くは小松、星、筒井の三大SF作家、さらにはウルトラマン脚本家の金城哲夫ら等、広くSF作品で用いられた言葉でもあります。あくまで想像に過ぎませんが、この言葉がSF雑誌に使われ始めた60、70年代当時は二度の大戦が終わって平和と繁栄に向かう日本の隅で、徐々に閉塞的な世界が見つかり始めた頃ではないでしょうか。三次元の現実世界がゆっくりと誰も気が付かない速度で行き詰まりを露呈し始め、次第にここではないどこかを待望する者たちが、この言葉を自身の代弁的な概念として創作物の中で使用し始めたように思います。初代SFマガジン編集長の福島正実などはまさにそうした創作者の代表格だと思います。
この「四次元悪魔」においても【四次元】を象徴する何かは主人公の自閉した心をもっと広い場所へ誘い出してくれます。この突飛にも見える現実世界との断絶は、しかし非常に論理的な流れの中で導かれている点が、薛監督の上手いところだなと感嘆させられます。音楽を諦めた一人の男の挫折と内面とを単純な形で昇華させることなく何層かのレイヤーを貫く形で、さらには驚嘆させることも心掛けており、映画の質をぐっと高めています。ラストショットの階段は、こうした昇華に相応しい印象的なものと言えます。
『A dogʼs life』
この四作の中では最も興味深い作品です。人物達が犬に成り切る、あるいは人間が犬を演じるという派手な演出を、何故薛監督はわざわざしたのでしょうか。 犬/dogとは単に犬を指すだけの言葉ではなく、往々にして従順な生き物、そしてさらには悪い方面に転じて下僕、権力に従うもの、下層で暮らすもの等を比喩することがあります。映画の中で描かれているのは単なる犬の生活です。私たちも知っている犬らしい、というか犬そのものの日常。しかし時々、犬が煙草を吸い初め、人間臭い一面が現れる。犬に成り切った人間を描くだけでなく、わざわざ人間らしいアクション、 、を入れたのはどうしてでしょうか。本体は人間なのか、それとも犬なのか。もしかしたら犬が人間を演じているだけなのか。そうした境界線の曖昧な状態は、受け取り手である私たちにどういう感情を想起させるのでしょうか。憐れみに近い感情を得る人もいれば、シニカルな風刺だと捉える人もいるかもしれません。この映画は言葉を操る者が登場しないだけに、小説等では描くことのできない過激な映画的映画ともいえます。ささやかなストーリーラインは存在しているものの、受け取り手の鏡としての、犬を記録した映像がそこにあるだけとも言え、これは彼の冷たい観察眼ショットととても相性の良い内容です。
さて、こうして全作を通して鑑賞すると二三の共通点が浮かび上がってきます。
まず、全ての作品において彼自身が主演として登場しているという点です。映画史上多くの名監督が己の映画でプレイしてきました。監督の持つイメージを最も忠実に体現できる俳優は監督自身でしょう。ただ、以前彼は自身が出演する理由を【監督の自我】ということに絡めて説明していました。監督自身が恐れずに自分の我と肉体を出すことで、映画そのものが現実と接続する糧になり得ますし、監督自身の抑えきれない自我が表現者として外に爆発することで、作品にパワーをもたらします。
また、台湾で生まれながら日本に暮らすことが彼の表現に強烈な色を与えていると思います。彼自身元々中国語を母国語として流暢に喋れていたのが、日本に長く住むにつれ日本語の方が上手くなったそうです。今では同じ英語小説を中国語で読んだとしても日本語ほどは感動できない程だし、映画の話をしていてもアントニオーニやネオレアリズモを中国語で何と言うのか分からないらしく、言語的な孤立に寂しさも感じていると語っていました。今回の四作とも日本語と中国語という二つの言葉が織りなす唯一無二の演出が見受けられますが、今後さらに個人の出生と文化的混濁という観点が引き延ばされていって、彼の映画に深みをもたらしてくれることもあるはずです。
最後に、先述したように、どの作品にも徹底して冷淡な視線が向けられているという点です。私たちが彼の映画の鑑賞者となった時、映画を以てしてメッセージを伝える/受け取るという安易でつまらない関係性に縛られることはあり得ません。ある意味で受動的に、ただただスクリーンに映る記録をひたすら眺めるという、映画でしか起こり得ない時間・体験を薛監督の映画は与えてくれます。短編数本でこの完成度だとしたら、中長編でどのような映画が出来上がるのか。監督の今後が楽しみで仕方ありません。
【文/ 菊池路介】

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