シネマ・リ・ブゥト Vol.4

Yamakuni Indie Film Library

吊るされた映画_『緑閃光』『モンブラントラベラー』

はじめに

映画とは観客の体感する現象であり、観客の頭の中にのみ存在する。ここを真正面から見据えるジャンルとして、サスペンス映画があります。サスペンスの語源、【suspend】には「吊るす」という意味があります。宙吊り状態、つまり、この先どう展開するのかわからない。観客は、先の見えない状態に様々に想像力を働かせます。サスペンス映画特有のハラハラ感は、劇中で小出しにされる情報の隙間を埋める観客の想像力によって創出されます。つまり、フィルムに定着された映像は、映画体験の一部でしかない。映画という総体を捉えるには、観客の頭の中で何が起こっているのかを推測する必要があります。どのカットを見せて、どのカットを見せないのか。見せる事、見せない事により、観客のイマジネーションがどう膨らむのか。ここまでを見据える、映画の設計思想とセンスが問われるのが、ことサスペンスというジャンルですが、それは遍く映画表現に通底する核心でもあります。

映画はバラバラに撮影されたショットを適切に繋ぎ合わせる事で成立しています。同一シーンにおけるあるカットの次に繋がるカットが、まったく別のロケーションとタイミングで撮影されたものであったとしても、それが適切に接合されてさえいれば、観客の中では一連の時間、一つのシーンとして体感される事になります。観客はカットとカットの行間を想像力で補完する。これは映画を映画足らしめる大前提であり、観客の想像力と協働せずして、映像が私たちに映画体験をもたらす事はありません。

また、そもそも映像は森羅万象を記録しません。例えば、映像は光学的に人間を記録しますが、いくら人間にカメラを向けたところで、その被写体が思っている事、考え、つまりは心、が映りこむ事はありません。映像が切り取り保存するのは、世界の表層に限られます。例えば、映りこんでいる被写体Aが涙を流すとします。それを観た観客は、「ああ、Aは悲しんでいるのだ。」と理解し、時に共感、感動します。が、被写体Aの本心は分かりません。Aの涙が、心からのものなのか。迫真の演技か、もしくは、ひょっとすると目にゴミが入っただけかもしれない。しかしながら、観客は時に心動かされる。観客の心を動かすものは何なのか。それは、観客の頭の中で膨張したAの虚像であり、虚像に見出すAの心なのです。それらもまた、観客の想像力と映像との協働を通して成立しています。

つまり、映像は常に【suspend】されている。故に、そこに個々の作家ならではの表現の余地が生じます。観客の想像力とどう結託し、どんな映画体験をもたらすのか。方法は様々であり、ここにそれぞれの映画作家の多様な個性が垣間見えます。映像メディアの限界をよく理解しながら、その表層性を逆手にとる。表層で遊び尽くす事で豊饒な映画体験を提供する。今回のシネマ・リ・ブゥトでは、意図して「体験」に焦点を合わせたであろう【吊るされた映画】二作品をピックアップしました。

『緑閃光』

武部亜美監督作『緑閃光』では、ある仲睦まじい夫婦が旅行する様が、南房総の美しい風景と共に、抒情的に描写されます。しかし、この夫婦の小旅行は、あくまで本作の表面であり、その内実は一筋縄ではありません。まず、娘に歯科矯正を受けさせるか否か、について迷っている事が、夫婦の会話から明かされます。妻は自身の歯並びの悪さにコンプレックスがあり、娘に同じ思いをしてほしくない。そして、妻が、この話題に踏み込む度に、夫は意味深にだまり込みます。こうしたやり取りが何度もリフレインされる。夫の不自然な沈黙は、どういう意図なのか。やがて、この映画を観ている我々も不安になってくる。夫の真意が見えないまま、【suspend】され続ける事で、観客の想像力のスイッチが入ります。微速ズームしていくカメラワーク、お湯の沸く音、枯れた倒木を強調するティルトアップ、妻を置いて先へ先へと歩みを早める夫、山中の奇妙な石像、そこに刻まれた意味深な文言。夫婦の仲睦まじい小旅行としての表面とは、どこか異質なこれら細部は、観客が想像力の翼を伸ばす手がかりとして、巧妙に機能します。これら細部が不穏にざわめく事で、夫が囁く妻への愛の言葉は、やや不自然に映ります。事ある毎にアピールされる妻への愛は、その過剰さ故にどこか軽薄。あるいは、後ろ暗さすら内包して見えます。一方で、夫の妻への愛が見せかけである確証も得られません。宙吊り状態の観客は、この夫婦の行く末から目が離せなくなります。

本作は、夫の真意を巡るサスペンスとして読み取れます。しかしながら、夫の真意を探ろうと目を凝らしてみても、この男がまた鉄面皮なのです。芝居じみた愛の言葉を涼しい顔で囁きます。どこかリアリティの薄い立ち回りに、かえってリアルを感じさせられる。芝居の上手い下手などは超越した、ただただ虚ろなハリボテ感は、サスペンスとしての本作のあり方に完全に呼応しています。この男の捉え難さが、観客のイマジネーションを更なる迷路へと誘い、本作に尽きぬ奥行きを与えているのです。

このように『緑閃光』では、観客の想像力との協働の先に、映画の焦点が置かれています。一見、変哲のない夫婦の小旅行を、絶妙に【suspend】した本作は、何とスリリングなことでしょうか。表面しか撮り得ないカメラという光学機器の限界を逆手にとる。映画表現のオーソドックスが、本作では過激に先鋭的です。表面に留まるという事は、事象の意味が確定しないという事です。カットの宙吊り状態が強調される事で、そこにダブルミーニングが宿ります。愛の言葉の裏には無関心が、幸福の裏には不安が、ぴったり貼りついている。そして、表裏双方が真である。先に述べた、夫の演技然り、ドキュメンタリーの様な自然さ即ちリアルである、とは限らない。虚と実、表裏がアンビバレントに同居する本作からは、ハイパーリアリティを感じます。万華鏡のごとき現実世界は何時だって蠱惑的な可能性の塊であり、そんな複雑な現実のポテンシャルを、映画という方法はうまく引き出す事ができる。本作は、そんな映画表現の奥深さをまざまざと見せつけてくれます。

『モンブラントラベラー』

菊池路介監督作『モンブラントラベラー』は、第一回山国映画祭でグランプリを受賞した傑作短編映画です。キャラクター間の大胆なリバースショットを駆使して表現された、屈折したメロドラマとして、また示唆に富んだSFとして、様々な切り口から語り得る本作ですが、ここでは本稿の趣旨に沿い、この作品がどのように【suspend】される事で、どうユニークな映画体験を私達に提供しているかに着目します。

本作の主人公「私」は、兄を失くし意気消沈している友人の舞を元気づける為にクリスマスパーティーを開こうとします。「私」はタイムトラベラーを招待するという口実で、SF好きの舞の気を惹きパーティー開催へとこぎつけます。果たして、パーティー当日、タイムトラベラーを自称する男が二人の許を訪れますが、この男が本物のタイムトラベラーなのか、それともただの不審者なのかが、なかなか判然としません。

以上が『モンブラントラベラー』導入部となりますが、この男の役割が煙に巻かれ続ける事で、本作はサスペンス特有の宙に浮いた感じを観客に与えます。おそらく彼は本物のタイムトラベラーであろう。状況証拠はそう示してはいるものの、確証を得るに至る決定打が常に、意図的にはぐらかされます。結果、「私」も舞も観客も巧妙に【suspend】され続ける事になります。

本作における過激に抑制された役者の演技は、サスペンスに大きく寄与しています。登場人物達の演技には、演劇的な芝居がかった印象はおろか、ドキュメンタリーの様な自然さもありません。キャラクター達のやや文語調のセリフ回しは、電話帳を読み上げるが如き抑揚の無さで、異様を醸します。中でも、タイムトラベラーを自称する男からは、まったく人間の躍動を感じさせません。人間らしさから程遠いが故に、彼が何者であるのか、感情の機微や言葉の真偽が全く読み取れない。ここに観客の想像力が否応なくぐるぐると駆動を始める。本作は、演技を過激に抑制する事で、実に巧みにスリリングな映画体験へと観客を誘います。

また、本作は2022年に制作されているものの、どこか無時代的です。ブラウン管テレビ画面を想起させるレトロなタイトルバックや4対3の正方形に近い画面サイズはノスタルジックですが、時代設定が何時なのかが判然としない。キャラクター達の服装も、部屋のインテリアも、現代といえば現代で通るし、ブラウン管テレビの時代、二、三十年前といえば、それらしい懐かしさも感じさせます。作中、タイムトラベラーを自称する男が、自身が本当に未来から来た事を証明するために、「私」と舞の前でスターウォーズ新作が2015年に公開される事を予言する場面があります。2015年スターウォーズが公開された過去を知っている現代の観客からすると、本作の時代設定が2015年版スターウォーズ公開前であれば、男の発言は、彼が本物のタイムトラベラーである事の証明になります。他方、公開以降という時代設定であれば、またも「とぼけたはぐらかし」となります。観客がこの男の真偽を知る絶好の機会としてのこの場面ですが、時代設定が見えない事、また「私」と舞のリアクションもどっちつかずに乏しい事から、結局はナンセンスな会話の一幕に終わります。

男の真偽に加え、時代設定もまた【suspend】される事で、本作はふわふわと地に足が着きません。凡そアフレコで録られたであろう、やや浮いた音声、どこかチグハグなキャラクター同士のコミュニケーションは、リアルから遊離した、この世ならざる夢のムードを醸します。しかしながら、キッチュで不穏な浮遊感は、一転、ラストカットにおいて急転直下します。【suspend】され、宙に浮いていた全てを、一気に片づける一手。男の真偽も、舞の辿るであろう運命も、あらゆる未確定要素が、「私」が起こすたった一つのアクションで決定してしまう。原因と結果の逆転現象が起こり得る時空SFならではの妙、故に集約されるラストカット。重要なネタバレとなるため詳しい内容は割愛しますが、その抜群の切れ味に、観客は戦慄を覚える事になるでしょう。宙ぶらりんの状態が解決される瞬間のスリルとカタルシスは、まさにサスペンス映画体験のソレです。表層の奥、本作の骨子に、サスペンスの構造が在る事が伺えます。

おわりに

インディーズ映画が、巨大資本が生産する映画に匹敵、凌駕する映画体験を如何にして生み出せるのか。無限膨張する潜在性を秘めた人の想像力は、資本に代わる尽きぬ源泉であり、インディーズ映画作家にとってのゲリラウェポンの一つだと言えます。観客の想像力に依ったユニークな映画体験に結実すべく、提供する情報と表現技法の取捨選択に、作家の創造力を総動員する。本稿で取り上げた二作品の創造的【suspend】の方法は見事であるばかりか、そこにはインディーズ映画の模範戦術となり得る要素がちりばめられています。映画とは観客の体感する現象であるという事を知らしめる珠玉の二作品、ぜひ今回の特集上映にてご覧いただけましたら誠に幸いです。

【文/小池篤史】

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