牧大我監督作『ダボ』『観察彷』『誰でもWC』
はじめに
牧大我監督と初めて出会ったのは学生映画祭でした。その映画祭で初めて『ダボ』を鑑賞した時、こいつはなんてことを考えてるんだと度肝を抜かれたと同時に、映画を映像の創作物として考える彼の姿勢にとても共感しました。
1998年生まれの彼は第一作の『ダボ』でいきなりNDJCという文化庁の若手作家育成プロジェクトに選出され、プロの現場へ入り、『デブリーズ』という30分の短編を制作しました。今回のプログラムには入っていませんがこちらはネットフリックスで観られるので興味のある方はぜひ。
この経歴だけでもいかに才能のある監督か分かりますが、しかし彼の本質を読み解くには、もっと深いところまで分け入る必要があるように思います。
映画と制作体制
彼は常に制作体制が大事だということを口酸っぱく言っていました。脚本に縛られた現代的な日本映画と違うものを創るには、映画を映像の創作物として捉え、根本的に制作体制をも疑ってかかるべきというのが彼のステートメントでしたが、この意見には非常に含蓄がありますし、かなり噛み砕いて了解するべきでしょう。
現代映画の進化は資本主義の発展と重なっています。かつてリュミエールが映画を発明した時、工場前を出入りする人々を記録しました。これはまさに「記録」であって、物語を付与する為の方法など皆無でした。全く意味や理論など付与されていない、無規定の「映像」です。
しかし映画で金稼ぎができるということが段々に分かって来て、カメラ/記録という素材は、何かを物語る、意味を付与する為の商品として変化しました。モンタージュの起源を一つに定めることは難しいですが、アメリカのグリフィスが大きく貢献したことは間違いありません。それまで広い画で、全体が分かるようにただ風景を記録するだけだったカメラが、人の顔を大きく映すことで、そしてさらに、そうした人の顔や視線を組み合わせることで、観客に意味を与えることが可能だと、グリフィスは自身の映画で示しました。すなわちカットバックです。二人の人間が会話していることや、ある人間が何かを見つめていることを、その全体像を映さずして表現できると判明したのです。あらゆるものを意味や言語、論理で絡めとろうとする人間の性質が、映画にもよく現れたと言えます。
こうして映画は普遍的な「映像言語」を獲得し、「顔のリレー」として進化が始まりました。人の顔というものがより重視されるようになって、ハリウッドやヨーロッパから多くの美男美女がスターとして世界中へ売り出される。映画は映像の創作物から、豪華絢爛なスター達が織りなす物語へと変貌を遂げます。
映画が商業的な側面を獲得すると、製作会社は単に映画を作るためだけの会社でなく、無論莫大な利益を上げて社員の生活を支えるための大企業へと成長します。映画を作り始める前にある程度には収入見込みを予測する必要に駆られると同時に、大きなギャンブルができなくなるということです。事前予測的に映画の完成度を高める為に、脚本至上主義、俳優至上主義ということが自然導かれ、そしてさらには、画面拡大やVFXといった技術革新が映画史上度々要求されてきたのも、企業と映画が密接に繋がっていることの証拠です。
当然こうした主義に対抗するような潮流は映画史上多く生まれましたが、ここでは割愛します。ただ昔も今も、映画産業が持つ特性は飽くまで大企業のそれと変わりなく、ともすればそうした主義が徐々に加速している一方で、本流と、本流に背こうとする副流は相対立し、より高次のものを生み出していきます。
牧監督は二十代そこそこで、早くもこうした映画の大局に気が付いていました。本当に驚くべきことだと思います。インディーズ映画の価値や意義に気が付き、良い映画とは何かを模索したのです。
【映像言語】とは多くの批評家が多様な意味合いで用いて来た言葉ではありますが、ここではこの言葉を、商業的、本流の映画に用いられる道具立てのことを指す言葉とします。すなわち、映像という媒体を、筋書きを物語る為の道具、脚本をいかに丁寧に再現するかの道具、つまり【小さな理論】として発展させてきたのが現代映画だと仮定すると、牧監督は【映像言語】的な作品というよりも、【映像詩】的な作品すらも包含しようとしているのだと言えます。これは日本語という分析能力の割合高い言語を持つ私たちにとって、非常に困難な道のりです。ヨーロッパに詩的映画を撮れる監督が多くいたのは、思想、風土上の違いもあるでしょうが、やはり言語的違いは大きく寄与しているように思います。
彼は脚本至上主義に対抗するために、より一層過度な、かつ包括的、体系的な【大きな理論】を作ろうとしている。それは、ただ脚本をうまく再現する為だけの道具ではなく、人にどういう体験や情感を与えるかまで含めて理論化、体系化しようとする【大きな理論】と言えます。
それ故に彼は制作体制に拘りました。カメラマン、役者、音楽家等、少人数のスタッフを一つの家にすし詰めにし、徹底的に議論を重ねながら作品を模索していく。こうした自主映画ならではスタイルが、出来上がる作品にパワーをもたらしています。注意したいのは、彼は極端に、かつがむしゃらにそこへ目指しているのではなくて、あくまでエンターテインメントとしての映画の側面も忘れていないということです。今回の特集では漏れてしまった作品もありますが、上映作品について批評を加える中で、彼が今何を目指そうとしているのかを紐解いてみようと思います。
『ダボ』
彼が最初に制作した短編です。ダボとは、本来関西弁で「アホ」や「馬鹿」と同じように他人を罵る言葉です。ただ、そうした語義よりも「ダボ」という響きそのものに着目してタイトル付けを行っているように思いますが、監督はこの言葉に、どういう思いを乗せようとしたのでしょうか。
この作品は一人の男の語りから始まります。「良い無駄もある、そして悪い無駄もある……」。表層的な捉え方をすれば、この短編は「無駄」にまつわる映画と言えるかもしれません。
当時の牧監督の生活と言えば、幡ヶ谷の古い一軒家にスタッフ達三、四人と共同生活をしていました。僕も訪ねたことはありますが、初めて行った時はあまりの汚さに絶句しました。物が多すぎて足の踏み場はないし、キッチンに放置された鍋にはヘドロが一杯に入っているし、どの部屋も煙草の煙と埃でむせ返すくらいでした。ただ、だからと言って居心地が悪かったと言えば嘘になります。整理整頓された清潔な部屋よりも、ある意味で人間的な、動物的な、虚飾の無い感じがして、気兼ね無くくつろげる場所だったように思います。監督、写真家、俳優、音楽家、デザイナー、美術家……。様々な若者達が皆口々に脈絡の無い、それでいてどこか切れ味の良い議論をひたすらに喋っていて、そうしてる内にいつの間にか知らない人が増えて、また好き勝手に話していく。目的を持たない議論は散漫に、時に無駄に進んでいくかと思われるも、最終的には導かれるように各人の心の中に小さくない影響を与えている。あの場所は異様な空間だったことは確かです。
「ダボ」はこうした、当事者達の生活空間、議論場をそのまんま作品にしたような映画です。実際の住処を撮影場所として用いるだけで満足するのではなく、監督はじめ、そこに入退場する人達の振る舞いや、整合性とはかけ離れた散らかった頭の中といった、野性味ある生身の感覚を見事に作品に落とし込んでいます。
この作品に主だった筋書きというのは一見して見出せません。ただ、一人の男の日常を小説的な語りでなく、断絶的、詩的、そしてテクニカルな語りで記録していくことで娯楽性を高めていますし、何より、彼自身が抱いていた野性的な生身の感覚、これは本来言葉を媒介としては伝播しにくいものですが、こうした感覚を映像としてぶつけようと奮闘しているのがよく分かります。
個別具体的な男の日常を見つめていく過程から、何か普遍的な物を、極めて映像的な手法で掬い出そうとする牧監督のその態度は、とても勇気があるものだと個人的には感じましたし、何より初作品でそこに挑戦できるのは流石の才能です。
『観察彷』
先ほどから述べているNDJCとは、文化庁の主催する若手映画作家育成プロジェクトのことです。これは毎年開催されているプログラムなのですが、『観察彷』についてお話する為にも、NDJCの一通りの流れを説明しておきます。
NDJCはざっくり言うと、若手作家にプロの制作会社をつけて短編を撮ってもらう、というプロジェクトです。プロとの製作実地研修を通して日本映画を担う監督人材を育てることを目的としており、その研修に最終的に参加できるのは2~4名です。一人一人に制作会社がついて、噂によると大体500~1000万のレンジで25~30分の短編を制作できるということです。(金額については人づての話なので確証はありません。)
まず大体夏前に候補者が募集されます。映画祭や制作会社、映画大学等、各団体が候補者を推薦していくのですが、個人での応募はできず、必ず団体が認めた実力者のみです。応募する際に候補者は短編の脚本を合わせて提出します。このホンは選考の基準にもなりますし、実地研修で制作する短編もこの時のホンが基本になります。
書類選考を通過した候補者達はワークショップへと進みます。候補者達はここで同一のテーマ、機材を用いて五分程度の短編を制作します。いわば実技試験のようなものでしょう。この短編の出来と面談、提出脚本等、様々な事情を統合して最終的な実地研修参加者が選抜されます。
牧監督は狭き門を通過し「デブリーズ」を制作しましたが、この実技試験で彼が制作したのが『観察彷』です。
『観察彷』は題名の通り、人間を観察することが趣味の一人の男を描いています。男は道行く人を付け回し、その人間がどういうものか、まるで昆虫でも観察するかのように日記を付けて行く。そしてある時、一人の女を発見する。女をストーキングしている内に、ふとしたことから、逆に女から接触を図られる……。
五分という短い尺の中で、観察し彷徨う男に訪れる困難を描くだけでなく、監督はさらにその先、即ち困難を経て男がどうするのかまでをきっちりと描き切っています。『ダボ』が重いハンマーで力づくに殴りつけてくる短編だとしたら、『観察彷』は鋭いナイフで適切に急所を一刺してくるような、非常に緩急のうまい短編だと言えます。つまり、これは牧監督がホン作り、物語構成においても多大な才能を備えていることが分かる作品です。
一方で、この短編におけるショットの積み重ねは、ある種断絶的な進め方をしながらも、しかし個々の組み合わせは緻密に考えられているようです。人が【見る/見られる】という行為を、単純な仕方で一面的に撮っているのではなくて、その人物がどういう意味合いで他人を見ているのか、【見る/見られる】という関係の中での上下はどうなのか、プレッシャーはどちらに掛かっているのか、そうした細かな意図すらもショットの方向、広さ、時間、ブレ等によって工夫しています。
彼は他の若手作家同様、現状の映画界を打破したいという思いを持っています。そして映画界の“穴”が、脚本を丁寧に再現するだけの【脚本至上主義】【小さな理論】にあることも知っています。ただ、だからと言って物語構成を疎かにするのではありません。それはNDJCの厳しい脚本選考を通過したことからも分かる通りです。映像詩的才能と物語的才能、この両輪が遺憾なく発揮されているのが『観察彷』だと言えるでしょう。
『誰でもWC』
詳しくは分かりませんが、こちらもワークショップにて制作された作品です。ここでも、一人で内面的に考え込むという手法でなく、オープンな場所で複数人とひたすら議論して作品を生み出していくというプロセスが取られています。ワークショップという枠に収めるには勿体ないような傑作だと思いますが。
ある男が奇妙なトイレに入る……。シンプルで単純なこのSFは、物語以上の情感をもたらしているという意味で、もしかしたら彼の【映像詩】的信念を最もよく表している作品と言えるかもしれません。
まず、この作品の読後感というか、情感のようなものに寄与しているのは、物語の語り部であることは間違いないでしょう。冒頭から登場する奇妙の髪型の男は、これから僕の物語を始めますと言わんばかりに、己の出生について独特な喋り方で話し始めます。しかし、現在軸にカメラが切り替わった瞬間に登場する主人公は、このモノローグを語る男とは全く違う容姿を持っています。ここがうまいなと思うのですが、観客たちはハッと疑問を抱かされることになります。さりげない物語上の心遣いとでも言うのでしょうか、牧監督の手数の多さはこういう点にも現れています。淡々とした演出で語り進めていく男と、その解答のように進んでいく現在軸の物語。本来シンプルで単純に終わるはずのSFがサスペンス的魅力を伴っているのは、こうした映像上、構造上の肉付けがあってこそです。
また、トイレに吸収される演出はダボを彷彿とさせるような、監督特有のテクニカルさを見せつけられるようです。『ダボ』、そして『観察彷』と並べて鑑賞した時、彼は常に分かりやすくシンプルな物語軸を心掛けていることがよく理解できます。複雑な脚本でなく、単純な軸を設け、文字情報以外の手数を模索するといったような姿勢でしょうか。
さて、一体この主人公は何を言おうとしているのでしょうか。冒頭から彼は自身の出生、人生に関して強い疑念とコンプレックスを持っていることを吐露します。自分が生まれたと同時に母が死に、自分を育てた養母と結婚する……。しかし彼は自分語りをしながら、ある一つの結論に辿り着きます。それは【人生はまるで宝石箱である】という言明です。
映画のショットの基本として「引けば喜劇、寄れば悲劇」という言葉があります。広い画で見ると物事は滑稽に見え、顔や体を大きく映せば、その人物が迫って来て悲劇的に見えるということです。「誰でもWC」の奇妙な髪型の男は、どんな人生であっても、広い宇宙視点で観れば肯定でき、ともすれば宝石のように輝くと、達観のようなものを物語の中で獲得していきます。たとえ肉体が変わろうが、己の中で起きた人生の生き生きとした記憶、感覚が残っているのであれば、手放しに肯定できる。こうした超常的な視点は、極度に合理を突き詰める牧大我ならではというか、何度も何度も考え抜いた結果得られたテーマなのでしょう。
『より理論的に突き詰めれば、より宗教的なものになる』と監督はいつか言ったのですが、これは彼の信念をとても表現している言葉です。とにかく、まずは言葉でいけるところまでいってみる。それは脚本上のことだけを対象にした狭いスコープでなくて、創作物としての映画を対象として広いスコープによって分析するということです。だからこそ『ダボ』のような作品を撮れるのだと思います。確かにあれは、感覚で撮っているように見えますが、しかし実際は、様々な勉強をした上で理論的にはじき出せる作品です。
どうすればある種の体験を与えることができるのか、偶然に頼らず、己の力で突き詰めていく。そうして、できる限りのところまで行って、それでもなお言葉にできない何かを発見した時、より純度の高い宗教性、情感と出会うことができる。それはまんま『誰でもWC』のラストと同じです。彼はそうした信念の下で、良い映画とは何か、常に対話と思考によって目指しているようです。
【文/菊池路介】

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