シネマ・リ・ブゥト Vol.2

Yamakuni Indie Film Library

そこにいる人間を見つめる_楠城昇馬監督作『あるきはじめて』『何も知らない』

『あるきはじめて』 マンゴーマジック

第三回山国映画祭をはじめ、他にも多くの自主映画祭に入選されたこの作品は、2024年9月、監督が23才の時に制作したものです。

この作品の主役は或るカップルです。大学院で研究を進める青年ケンタと、大学を出た後就職し仕事に勤しむ女性リナ。この関係性だけ抽出するとよくある「すれ違いカップル」のように捉えられますし、映画としてこの題材が選ばれた以上、容易にその結末は予感されます。事実二人の若者は最終的に別れ、お互いの道を歩き始めることとなるのです。ともすると些末な筋書きになるかもしれないこの題材を、しかしながら楠城監督は、二人の結末に至るまでの過程と、そして結末そのものの描き方に豊富な内容を含ませることで、傑作に昇華させているようです。

さて、この作品を一見してまず特筆すべきなのは俳優たちの見事な芝居です。魅力ある芝居のおかげでこの作品が単なる甘い別れ話に終始するのを避けています。というのも、青年ケンタ役の隈坂健太さんや、ケンタの危なっかしい旧友など、彼らはまさしくブレッソンの言う「モデル」を体現しているようです。つまり玄人俳優に或る役割を演じさせるのではなくて、その人が持つ人柄をうまく利用している、それは演ずるというより「再現」に近いのかもしれません。この作品に登場する俳優たちはカメラの前で芝居をしているのではなくて、再現をしているだけのように錯覚してしまいます。現実世界ではあまり聞き馴染みのない言い回しや表現、話し方。そうした細かい所作全てが、私たちが今生きているこの世界とは全く別の世界を、彼の映画の中に作り上げているのです。「あり得ないリアリティ」と言っていいのか分かりませんが、歪な現実性が彼の作品の中に漂っているのは間違いなく、そしてそれに俳優たちの強烈な芝居が深く関係しています。

また、この歪なリアリティをさらに助長しているのは各々のショットとモンタージュです。山国映画祭プログラムディレクターの小池さんが作品レビューでも語っていたように、原因と結果を繋ぐ因果関係の説明を彼はある段階で放棄しています。例えばラストにおいてこの二人は別れるという選択を取りますが、何故別れたのか具体的な経緯に関しては全く触れられません。むしろ仲睦まじい様子が描かれた次のシーンで、突如ナレーションによって別れたという結果が説明されるだけです。これは人の冷たさをよく理解している演出と言えるでしょう。至る所に見られるこうした極端な省略は作品に切れ味をもたらすと共に物語の補完を観客に強要し、一筋縄ではいかない情緒を与えています。

あるいは、この作品の冒頭のショットと終盤にあるショット、この二つのショットに目を向けてみても、彼のモンタージュの才能が垣間見えるかもしれません。物語の初め、ケンタが洗濯物を取りこみ、リナが慌てて支度する様子を映しています。他方で物語終盤、即ち二人がナレーションで別れたことを説明する直前でも、ほとんど同じショット、同じ動き、同じ場面が使われています。陽の光が陰っていく様まで同じなので、全く同一のショットを使ったのではないかと思わされるほどですし、恐らく二つのショットを入れ替えたとしても何の違和感もありません。小池さんもおっしゃる通り、この二つのショットを単体で観たとしたら、何気ないカップルの日常を思わせます。実際冒頭でこの場面を視聴した観客たちはそのように解釈したでしょう。しかし物語終盤の方のショットでは、人々に違う感情を思い起こさせるのです。同一の画の見え方が変わって来る。単純そうに見えるこの手法は、単純なだけに大きな打撃をもたらし、モンタージュということの真価を私たちに再認させてくれます。

私がこの映画の優れていると思う別の点は、この作品が或る意味で心理サスペンスとなっている点です。つまり、ケンタの心理は如何なるものなのか、に焦点を当てた作品でもある。対照的にリナの心理は割にその裏面まで描かれているのですが、ケンタに関しては好青年として描かれるだけで、物語中盤まで彼の腹蔵が直接的に現れることはありません。無論彼の人柄、特に欠点の方はきちんと描かれ、それが物語の推進力となってはいますが、基本的な振る舞いは好青年と言え、リナに対して常に論理的で肯定しようとする態度ばかりが描かれます。

ケンタは退屈な人間だな。でも心の中で何を考えているのだろう。

観客はこの問いかけを知らず知らずの内に抱えさせられ、そしてその解答は唐突に提示されます。私は初めてこの映画を観た時、あの答え合わせに絶句しました。

長くなってしまいましたが、最後に、マンゴーについて触れないことにはこの作品の批評として不完全でしょう。物語終盤、ケンタの元に台湾に留学している女性の友人からマンゴーが届きます。(ちなみに実際は、植物防疫の観点から個人が土産としてマンゴーを郵送するのは難しいそうです。)ケンタは入れ物が無いために片手にマンゴーを握り、リナの待つ家への帰路につきます。歩く途中、背景BGMとして友人からの手紙が読まれています。「台湾で待っています」と。

このシーンはかなり問題含みです。何故監督はわざわざマンゴーを持って帰るシーンを描いたのか。省略を好む監督があえてマンゴーを片手に歩くケンタを記録したのには、或る理由があるはずなのですが、その秘密が明かされることはありません。

まず思いつくのは留学先の友人との関係性です。この女性は恐らくケンタの後輩であり、物語序盤でも登場していて、「ケンタさんを待っています」という旨の言葉度々を残します。描写としてケンタの真面目そうな雰囲気ばかりが選択され、彼の心中が直接に述べられることがないだけに、ケンタと後輩女性の互いの思いがどんなものか私たちは想像することしかできませんが、このマンゴーシーンはそうした二人の関係性が隠見する材料として配置されているのかもしれません。しかし、単純にそうとも言い切れないような怪しい雰囲気がこのシーンには溢れているのです。

意図はどうであれ、私はこのマンゴーシーンに言い知れぬ瑞々しさというか、ジーンとくる何かを感じてしまうのです。果たしてそれは何故でしょうか……。

『なにも知らない』 少女の表情

2025年9月には「なにも知らない」を制作しました。楠城さんが恐らく学生として撮影した最後の自主映画です。無論どの作品も素晴らしいですが、個人的にはこの作品が一番好きです。

これは社内でパワハラ問題を起こしてしまった中年男性と、その高校生の一人娘の話です。一般的に言われる大きい話の動きというのは無いように見えます。実際は様々なストーリーが動いているのですが、短絡にまとめられる筋というものは存在しません。他作に比べても彼のシンプルで欲のない筆致はさらに洗練されており、それだけに一つ一つのアクションや出来事が際立つよう仕組まれています。

ここでも彼の省略法は巧みに生かされています。例えば、この映画は主人公の中年男性が部下を叱るシーンから始まります。その叱り方が激しいので観客は嫌悪を抱かざるを得ません。次のシーンでは男性の叱咤の声が継続しつつ、その音声をPCで確認している上司が登場します。即ち、パワハラの現場シーンからパワハラを戒めるシーンへ、非常に映画的な語りで移行しているわけです。観客は時間的省略を自然に受け入れることができます。

こうした自然な省略と移行を活用する一方で、暴力的な省略も見られます。映画終盤、娘は橋の上で父親のくれた帽子を被ろうとしますが誤って川に落としてしまいます。流される帽子を拾おうと追いかけていると、途中草むらで寝ていた青年と出会います。青年はむくっと立ち上がり、娘に近づく。娘は後ずさる――。このシーンの後、リビングで寝ている父のショットに切り替わります。これは何とも容赦のない省略です。映画とは何を見せるかではなく、何を見せないかが大事とは、どこかの映画監督が言っていましたが、楠城さんの演出はまさにその点において長けており、しかも省略のやり口、映画的モンタージュが何よりも雄弁で、かつ多弁さとは異なった魅力を発しているのです。

ちなみに帽子を追いかけるこのシーンには突き抜けたピュアさがあって、恐ろしいほどの輝かしさがあります。まるで30年代のフランス映画を観ているような感覚に陥ることでしょう。

さて、この作品においても脚本の構成力と俳優の芝居は秀でています。

主人公がパワハラをし、さらにそれを取り沙汰されるという一連のシークエンスは、観客に主人公の傲慢さを印象付けること間違いありません。しかしながらその直後、主人公がコンビニでジョアという乳飲料を買い貯めているシーンに移ります。素っ頓狂で笑いすら誘う場面ですが、後々一人娘がジョアを好んで飲んでいることがさりげなく明かされます。こうした細かい気配りというか、人物の多面的な語りは至る所に見られ、映画の深度が上がるよう寄与しているのです。一人一人の俳優は強烈な個性を持っていて、先ほどから述べている「モデル」論を、意図してかせずか、大いに体現しているように思えます。

切れ味良いラストはこの作品にも健在しており、私は何度も見返したくなってしまいます。娘が家に帰らないことを不自然に思った父親は、彼女を探しに町へ出ます。日が暮れるまで探し回って、最終的に河川敷で或る光を発見する。近づいてみると、それはスマホのライトを頼りに英単語帳?を勉強する娘。娘はこちらを見る。父の安堵した表情。そしてまた娘の顔のクロースアップ……。

さて、この後娘はどんな表情をするでしょうか。笑うのか、泣くのか、表情を変えないのか、あるいは何か言うのか。このショットは物語の締めでもあり、娘がどんな表情を見せるのか、期待する観客たちは前のめりになります。物語の意味というか味というか、とにかく映画の質を決定する大事なシーンなのです。監督の腕が問われると言っても過言ではありません。

そうして楠城監督はあの大胆な演出を試みます。私にとってはあまりに衝撃的で、刹那に介錯されるような感覚だったのを覚えています。あの表情には、少女の全てが詰まっています。

そこにいる人間を見つめる

こうして楠城監督の作品を概括してみると、底流する特徴が浮かび上がってきます。思うにそれは純粋さと誠実さではないでしょうか。この二点こそ、私自身が映画を鑑賞する際に感動させられるものでもあります。

無論彼の制作過程には様々な思惑や仕掛けが組み込まれているでしょう。度々挙げる省略という手法も作意が無ければあり得ない演出です。しかしながら結果的な「見え」に関しては、そうした欲や作意は全てそぎ落とされ、純真で誠実な作品に仕上がっているのです。さらに言えば、そうした単純性や誠実さ、澄んだ作風であるのにも関わらず、それでいて力強い迫力が伴っている点が、彼の天才さを物語っていると思います。私はおべっかや冗談ではなく、彼の才能は商業作品のそれと比較しても図抜けていると思うのです。しきりに言うように、彼の作品にはダイナミックなショットや大味のアクションがあるわけではありません。しかしながら、それらに匹敵するほどの飽きさせない人間描写が付帯しているのです。

彼固有の世界が完成されていることの他因に、極めて客観に徹しているということが挙げられます。普通映画というのは主観、即ち観客の感情を揺さぶる為に進化してきました。顔のクロースアップ等はまさに好例です。しかし、彼の作品にクロースアップはほとんど出てきません。人に寄ったとしてもせいぜいバストショット(胸より上の画)くらいです。楠城監督はカメラの記録性について十分過ぎるくらい理解のある監督なのです。つまり、ストーリーをエモーショナルに物語るという通常の手法から遠く離れ、ひたすらに客観的なショットを積み重ね続け、人が動き、喋るのをただ記録しているだけなのです。彼の優れているのは、そうした客観の積み重ねで出来ている映画にも関わらず、固有の時間感覚が流れていると同時に、何より感情を揺さぶるような作品に仕上がっているということです。これは驚くべきことではないでしょうか。まさしく魔術というか、小津やブレッソン、ペドロコスタ、カウリスマキに見られるような、ショットの制限による客観性の徹底化、すなわち適切な距離感で人間を記録することの徹底化で、映画に言い知れぬ魅力を与えているのです。

監督自身が自作について語ることはタブーとされていますが、時々には多少なりとも言葉を添えなければならない場面が出てきます。この批評の締めとして、第三回山国映画祭に「あるきはじめて」が入選された際、楠城監督がプロフィール用に提出した文章を掲載しておきます。この言葉には彼のスタイルや思想、映画に対する真摯な思いが詰まっていて、ただただ感服するばかりです。

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