立場と距離_小池勇瀬監督作『ここに いても いい』『A New Town』
はじめに
映像メディアは、物と物、人と物、人と人、等々のシチュエーションを記録します。例えば、AさんとBさんが会話しているとします。それは立ち話なのか、場所はどこか、この二人の間隔、視線はどこを向いているのか。これらを言葉のみで正確に描写しようとすると、伝達齟齬は避けられません。しかし、映像で切り取った場合、まさに一目瞭然、明快に伝達する事ができます。
映像でキャラクターの思念や内面を映しとる事は不可能です。そもそも、カメラが人の内面まで撮影してしまうのであれば、架空のキャラクターに成りすます「俳優」という仕事は成立しません。カメラが映し得るのは、物理的な身体であり、物質の表面までです。
光学的に記録された身体や物。それらの位置関係。そして、それらが周囲に対して働きかけるアクション/リアクションの連鎖を組み立てる事で、映像は物語性を帯びます。アクション/リアクションが、玉突き状に「出来事」を巻き起こし、ストーリーが転がりだす。ここにおいて、単なる映像は映画的な実体を得ます。
インターアクションを自然と生み出すために、身体と身体、身体と物、それぞれの「立場」と、それらの間にある「距離」が肝要です。物理的に距離があまりに遠くては、AとBの間にインターアクションは生まれません。一方で二者の違いが分からないほど近すぎると、摩擦と葛藤は起こりません。適度な距離と、その距離の変動こそが、インターアクションを生じます。人や物の立場、距離の変動から駆動する一連のストーリー。それを私たちは「映画」と称するのではないでしょうか。
小池勇瀬監督作品『ここに いても いい』、また『A New Town』に「映画」を感じさせられる所以は、これらの作品が身体や物の位置関係と、それらの間にある距離の変動を、鋭敏に捉えているからだと思われます。小池氏の作品に登場するキャラクターは、概して不用意に視聴者にその内面をさらけ出したりはしません。代わりに、空間を占める身体と、その位置関係、距離の変動がもたらすインターアクションでもって雄弁に物語ります。
ここに いても いい
『ここに いても いい』のファーストカット、本作の主人公、ダイジロウが全速力で疾走します。彼が広場を横切り、階段を駆け上がり、カメラポジションに向かって走ってくるまでを捉えたワンカット。遠方から全速力で近づいてくる男のカットに、心ざわつきます。対象との距離の急激な変動が視聴者にもたらす心理効果を巧みに利用した演出です。
ダイジロウには、予想外の方法で視聴者にスリルをもたらす、底知れぬ側面があります。彼が、ノコギリや手斧を手にする時、道具としての刃物は武器の可能性を帯びます。武器は、人物間のインターアクションの在り様、その立場と距離に決定的な変容をもたらします。映画における銀行強盗の場面等を想像してもらえれば明白ですが、一方が武器を手にする事で、他方に無理難題を強要する権利を得ます。特に銃は、二者間の距離の隔たりを一瞬にしてゼロにしてしまうその物理的な性質から、終わりなきインターアクションに決着をつけるべく、しばしば映画に登場します。映画における銃撃戦の後には、一方が倒れ、一方が勝利を謳歌する。それまで執拗に描かれていた因縁と葛藤はあっけなくスッキリと解決するものです。銃は言うに及ばず、ノコギリや手斧といった道具、武器となりうるそれらは、時に主人公キャラクターを取り巻く問題を、一足飛びに片づけるための悪魔的なアイテムとなります。安易な片付けが葛藤の本質的な解決となるかどうかは、また別問題とはなりますが、あらゆる武器は、それを用いるキャラクターの「立場」と、彼/彼女を取り巻く人や物との「距離」を再構築するべく、使用されます。
ダイジロウは、生まれ育った家で独り暮らしています。父はおそらくは他界しており、母と妹はそれぞれの彼氏と新しい生活を始めている。そして、生まれ育った家から期日までに引っ越さないといけないというダイジロウの状況が、本作冒頭で説明されます。ダイジロウの心中は、説明される事はありません。ただ、彼は、その置かれている状況に何らかの変容をもたらすべく、アクションを起こします。彼は、家族を集めて流しそうめんをやろうとします。他人の竹林に不法侵入し、竹を切り出してくる。伐採のためのノコギリや手斧を、ダイジロウがおもむろに手にする時、わずかにサスペンスの気配を感じさせるのは、彼の置かれている「立場」、また彼のポーカーフェイス故でしょうか。これら刃物類は、決して他者に向けられる事はありません。しかし、これらが間接的であれダイジロウの「立場」を確保するために使用されている時点で、控えめながら武器の性質を得ていると解釈できます。
本作の白眉は、ダイジロウが切り出した竹を担いで、夜の住宅街を走るシーンです。どこか民族的な劇伴の効果も相まって、ダイジロウからは、生まれてくる時代を間違えた原始人を想起させる、プリミティブな力強さと安易な感情移入を拒む高潔さを感じさせられます。担いだ竹は、流しそうめんの材というよりは粗削りな手槍の風情をまといます。閑静な住宅街を背景として、一層ダイジロウの身体性と竹(槍)を担いで走るというアクションの異質さが際立っており、このシーンにはホームを追われる難民のドラマとしての本作が、濃厚に凝縮されています。この異様なシーンは凄まじい切れ味があり、小池監督のアイデアと実行力に驚愕させられます。『ここに いても いい』と逆説的にも解釈し得るタイトルが冠された本作は、空間を占める人物の身体、その「立場」と周囲との「距離」感にフォーカスを絞る事で、映画ならではの語り口を見事に実現しています。
A New Town
『A New Town』では、大学生のサク、同年代のユキ、サクの母親が、主要なキャラクターとなります。中でも、サクとユキの関係性の変化、その機微が腰を据えて描かれており、主人公の孤高が際立っていた『ここに いても いい』との差異は鮮明です。一方で、本作においてもまた、光学的に記録された身体や物、その立場、各々の距離、が物語を駆動させており、小池監督の首尾一貫した映画制作の在り方が見て取れます。登場人物間の物理的な距離が絶妙にコントロールされており、視聴者は我知らずこの物語に得心させられる事となります。
ここではサクとユキの関係性の変化を、二人の間の距離の描かれ方に着目する事で紐解いてみましょう。まず、二人の最初の出会いの場面です。サクが一方的に、自転車に乗って走るユキを目撃します。しかしながら、映像的には、ふと通りを見るサクの立ち姿のカットの切り返しとして、自転車に乗るユキのカットがモンタージュされるわけではありません。ユキのカットではなく、自転車乗りの服装をした男が何かを必死に追いかけているカットに繋がります。ユキが自転車泥棒した事、そして、自転車の持ち主が必死に彼女を走って追いかけている事は、ここまでの文脈から観客には読み取れるつくりとなっています。しかし、自転車で逃げるユキをここで映像的に描写する事は意図的に避けられており、サクとユキのカットは接合されません。後々、サクがこの時、自転車で逃げるユキを目撃していた事が、彼の口から明かされますが、少なくとも現時点では、二人はバラバラの印象のままです。二者間の距離は隔たっています。
次に自転車が壊れて立ち往生しているユキをサクの母親が見つけ、家に連れてくる場面。庭で壊れた自転車の修繕に取り掛かるサクの母親、それを見守るユキを、家の台所からサクは見つけます。サクからユキへの一方通行の視線に始まり、徐々に二人の物理的な距離が近づいていく。そして、サクの母親が仲介役となり、二人はようやく出会います。カットとカットが接合される事で辛うじて繋がっていた二者が、一つのフレーム内に収まる事となります。
自転車泥棒の疑いのあるユキを警戒するサクに対し、サクの母親は「アンタはもっと新しいものに出会ったほうがいい」とサクを諭します。サクの母親が自転車を修理し終わるまでの間、サクとユキは共に時間を過ごす事になります。二人の物理的な距離はその心的な隔たりと相関し、時に近づき、時に離れながら、少しずつ縮まっていきます。
三人で夜ご飯を買いに行く場面。会話しながら並んで歩くユキとサクの母親。ユキが自身の家族に関する話題にふれたあたりで、前方を独り歩いていたサクは足を止め、靴紐を結び直します。ユキとサクの母親に歩調をあわせるサク。三人は横並びとなります。サク同様に自身も母子家庭である事や母と一緒に暮らす事の難しさについて淡々と話すユキ。横並びの人物配置、人物間の身体的な距離の縮まりは、その心的同調と相関して描写されます。
キャラクターの立場と距離を丁寧に描く事で、言葉による説明ではなく、役者の身体に物語らせる。この方法の総括として、秀逸なラストシーンが用意されています。サクが父親を事故で失くしたトンネル。以降、サクは恐ろしくて、このトンネルに近づくことを避け続けてきました。ユキはサクの変化を促すべく、彼をトンネルへと導きます。この場面では言葉のやりとりによる説明は、極限まで削ぎ落されており、代わりに、表情、動き、そして、二者間の距離と環境音のみで物語られます。徐々に距離を詰めていく二人。サクは意を決し、ユキと手を繋いでトンネルを一気に走り抜けます。二者間の距離の変動を丁寧に描写してきたここまでの積み重ねにより、「手を繋ぐ」というシンプルなアクションが一層ドラマチックに映ります。
身体や物、各々の距離に相関して起こるインターアクションが物語を駆動する。走り出した物語が、視聴者の心を揺り動かす。シンプルに見えて、実現困難なこの方法を完璧に遂行する小池監督の手腕に脱帽せざるを得ません。また、微細な距離の変化を鋭敏に捉える方法は、他者存在の必要性を凛として掲げるこの物語と一体となり、益々強度と説得力を高めています。故に本作は、私小説的な自己内省の沼に拘泥しがちなインディーズ映画群の中で、ひと際稀有な輝きを放っているのです。

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