2026年3月13日(金)~15日(日)に開催される第三回山国映画祭。全国公募より選りすぐられた佳作6作、コンペティション作品5作のレビューを掲載します。あくまで筆者の解釈であり、内容に踏み込んだ記述もあります。まっさらな気持ちで映画を楽しみたい方は、鑑賞前に本文に目を通されるか否か、ご一考ください。
面を線でなぞるように、とても語り尽くす事などできない。
そんな強靭な作品ばかりとなります。本レビューが上映作品を一層楽しむための、僅かばかりのスパイスとなれば嬉しく思います。
一と他 ―『ほしい』『長い夜』
舞台や状況、方法を敢えて限定する映画があります。ワンシチュエーションドラマとは、その名の通り、一つの状況や場所のみで、物語が完結するドラマ作品を指します。ワンシチュエーションドラマでは、描く範囲を限定することにより、登場人物の会話や心理描写等の細部に自然と視聴者の注目を向けることができます。また、範囲を限定する副次的な効果として、その範囲の外側を明確にできる、ということがあります。外側を、観客のイマジネーションの強力な助けを借りて描き出すことにより、時に視聴者に、直接映像で描写する以上の豊かなイメージをもたらします。
清家天監督作『ほしい』という作品は、兄、悠生の職場に妹、由夏が一年ぶりに訪ねてくるという、一つの状況のみで構成されています。忘れ物を探しに来たというのはどうやら方便で、妹の訪問には、何やら目的があるようです。悠生と由夏、それぞれの手の内、胸の内が会話劇にて明らかになるにつれ、やがてこの物語の核心は、映像的には一秒も映し出されることのない二人の親、にあることが見えてきます。
悠生と由夏の母親は数年前に亡くなったこと。以降、父親が男手一つで二人を育て上げたこと。悠生は父との暮らしにうんざりして家出同然で独り暮らしをはじめたこと。こうした経緯と共に、父がどんな人間なのか、悠生、由夏、それぞれの視点から語られ、父の姿と家族の関係性が立体的に浮かびあがります。「語り」によってワンシチュエーションの範囲の外側を描く方法は、そう珍しくはありませんが、本作ならではの面白い点は、それが映像として描写される点です。ワンシチュエーションの外に出ることなく、外を映像的に描写するとは、どういうことでしょうか。
本作は悠生と由夏の両親、特に父に関する物語です。悠生は、母が亡くなった時、自らの悲しみを圧し殺し、悠生と由夏の前で気丈に振る舞った父の姿に、疑問を抱いています。悲しい時に悲しいと言わない、周囲の人間を慮って、素直に自分の気持ちを表現しない。こうした父に反抗心を持っている悠生ですが、彼自身もまた、素直に自分らしくあれる場所は、ネットラジオコミュニティの中だけであることが、作中で明らかになります。また、悠生が唐突に家を出たのは、前もってその旨を伝えると、父の悲しむ姿を目の当たりにしてしまうからです。悠生の、周囲への屈折した気遣いの在り方は父に酷似しており、彼の父に対する反発は近親憎悪に近い感情であることが分かります。つまり、悠生は父の合わせ鏡なのです。
本作ラストで、焼き菓子を包む兄の後ろ姿をじっと見つめる由夏。焼き菓子を父に食べてもらう、というのは久しぶりに父を訪ねる方便です。彼女は、素直になれない、父と兄のことを良く理解しています。視聴者は彼女の視点を借りることで、悠生に父の姿を重ねることができます。本作は、このように視聴者のイマジネーションと結託しながら、状況の外側にいる父の姿を悠生を通すことで映像的に描写します。ワンシチュエーションを逆手にとった豊潤な映画体験は、本作ならではの醍醐味となります。
草刈悠生監督作『長い夜』は、青春の光と影を真正面から描き出します。親友、恋人との輝かしい時間とその喪失、甘さと苦みのワンセットが、あまりに情感豊かに表現されます。そして、その大半がワンシーンワンカットで構成されています。それは小手先ではなく、本作のエモーショナルなドラマを描き出すための必然性に満ちています。ワンシーンワンカットでは、状況を自由に取捨選択し、視聴者に見せたい全てを見せることができません。物理的制限の中にあるカメラ、また映像の枠は、カット編集された通常の映画以上にその存在を主張します。ある状況に密着することで逆説的にその外側を感じさせるワンシチュエーションドラマ同様に、本作におけるワンシーンワンカットは、切り取られたカットの外部が主題に肉薄します。
本作冒頭、暗い夜の海へと入っていくカイというキャラクターの後ろ姿が描写されます。やがて波にのまれ、見えなくなるカイ。少し遅れてカイの親友、光一がフレームインし、カイを探して海へと入りますが、カイを見つけられません。カイは、この謎めいた冒頭シーン以降、光一や恋人、真里の前から姿を消し、物語中盤、二年ぶりに偶然光一と再会します。カイが死んだものだと思っていた光一は面喰い、自分はおろか真里にすら一度も連絡を寄こさなかったカイを叱責します。カイは光一に「ごめん」と謝るのみで、自らの意志で失踪することを選んだ理由は明かされません。カイというキャラクターの分かりづらさは、彼が波にのまれフレームアウトするこの冒頭シーンに象徴されています。フレームの外側は、映画という物語の範疇の外。分かりやすい意味や、キャラクター性に回収されない領域となります。光一から「つまんねえやつになったな」と揶揄される再会後のカイもまた、どこか捉えどころがないヌルりとした存在として描写されます。かつてカイが描いた自画像の瞳のように、光一の編集した思い出のビデオに映る昔のカイの瞳は、時に狂気じみた光を放ちます。対照的に、光一と再会後、車のバックミラーを使って長回しで描写されるカイの眼差しは、かつてのそれとは異なり、平凡そのものです。思い出のビデオに映るカイの姿は、光一というエディターの目を通して仮構されたキャラクター性、偶像化を強く感じさせるものです。他方、現在のカイは、偶像というまやかしのフレームからエスケープした後の姿であり、長いカットが否応なく炙り出すリアリティ、取り留めの無い現実が、このキャラクターに溶かし込まれています。
編集作業を経た思い出のビデオと、現在を映し出すワンシーンワンカットは対照的に配置されています。思い出のビデオが流れるシーンでは、作中唯一、ウェットでエモーショナルなバック音楽が重なります。音楽や編集による印象操作を経た過去の映像の軽やかさと比較して、現在を映し出すワンシーンワンカットは、その物理的制限がもたらす不自由さを感じさせます。じっくりと撮られたワンシーンは、経過する時間の長さ、重たさを視聴者に強います。本作におけるワンシーンワンカットは、軽やかな過去の思い出がコントラストとなることで、一層不自由な現在を強調するという構造となっています。
物語終盤、光一は川辺で花火に興じる若者たちに過去の自分たちを重ね、そこから決別せんと歩き去ります。彼が決別しようとしているのは、甘い過去の思い出、また、この過去に連なり依存することで成立している、まやかしの現在です。続く喫茶店でのシーンにて、光一はカイや真里に本音をぶちまけた後、やはり、かつてのカイと同様、フレームの境界線が溶ける暗い夜の海へと向かうのです。
このように本作では、カットに映りこんでいるものと同等あるいはそれ以上に、切り取られたカットの外部が、物語を駆動させるための重要なファクターとなっていることが分かります。甘く気持ちの良い思い出のビデオがあるからこそ、現在を映し出すワンシーンワンカットの重たさ、窮屈さが一層感じられる。そして、窮屈な現在、その居心地の悪さが、キャラクターたちの時間を前に進める動機となり、そこにドラマが立ち現れる。怜悧に考え抜かれた構造を活かすことで、青くエモーショナルなドラマを見事に描き切った本作は、驚嘆に値します。
虚構と虚像 ―『ロックンロウル』『最高の友達ができた』
「人生はクロースアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇になる」とは、チャップリンの有名な言葉ですが、この考え方はキャラクターの人生を観る多くの表現へと押し広げられます。舞台の上やスクリーン内は観る主体から隔てられているため、観客にとってはロングショットの遠景を見る体験に近くなります。当然ながら、演目や映画のジャンルは悲劇からスリラーまでさまざまであり、すべてが喜劇ではありません。とはいえ、そこで物語られる喜びも悲しみも、生も死も、あらゆる出来事は観客にとってのエンターテイメントとなります。舞台やスクリーンという現実から適切に切り離された場所で起こる出来事、すなわちフィクションであるがゆえに、観客はそこで起こるドラマに安心して笑い、涙を流すことができます。うまく作られた映画は、遠景と近景を組み合わせることで観客心理を誘導します。重要なのは、観客と舞台あるいはスクリーン内で起こっている出来事との距離感であり、この距離感が適切にコントロールされている限り、観客の感情は程よく揺さぶられます。
山田遊監督作『ロックンロウル』は、観る主体と観られる客体との距離感を主題の一つとしています。本作冒頭、本番直前の舞台稽古で、役者の未那と康生は演出家・敦澤に厳しいダメ出しを受けます。演技力不足に伴う改稿のため二日間の休みを言い渡されますが、プライベートでの恋人関係も難しい岐路にあります。舞台内外ともにうまくいっておらず、登場人物たちにとっては悲劇的な状況です。物語半ば、恋人に突然別れを切り出された康生は落ち込みます。しかし映画は康生に寄り添うのではなく、「遠く」から眺めることに徹します。落ち込む様子には漫画的な誇張が施され、異様にコミカルな描写がフィクショナルな作り物感を露わにします。それにより視聴者との適度な距離が保たれ、悲劇への同調ではなくエンターテイメントとして提示されます。
本作は「映画」と同様に、「舞台」もまた距離感によって成立していることを描きます。ラストでは未那と康生が舞台本番に臨みます。幕が開いた瞬間、嫉妬に狂った未那の恋人が舞台に乱入します。アドリブが混じり混沌とする壇上。しかし観客はそれを演出だと勘違いし、拍手喝采を送ります。役者や演出家にとっては悲劇でも、観客にとってはエンターテイメントです。出来事をロングショットの遠景として捉えるからこそ、それは成立します。さらに映画を観ている私たちとの間にはもう一段の距離があり、状況は見事に喜劇へと転じます。
ロングショットで捉える、すなわち状況にフィクションを見出すことで起こる悲劇から喜劇への転換は、本作随所で試みられています。白眉は舞台乱入からの怒涛の展開です。観客の拍手喝采ののちも違和感は拭えず、フィクションが崩れかけた瞬間、ラテン音楽のバンドが乱入し舞台はさらに混沌を極めます。すべてがワヤになったとき、未那は自身の悲劇すらロングショットで俯瞰します。物理的にそう見ることはできずとも、セルフイメージを捉え直すことは可能です。宇宙から自己を見下ろすイメージショットが差し挟まれ、悲劇は喜劇へと反転します。底の抜けたオプティミズムが爆発するラストは痛快です。
「観る」とは距離を置いて対象を認識することです。その行為には「主体と客体の断絶」という含意が内在します。野呂悠輔監督作『最高の友達ができた』では、この側面が鋭利に抉り出されています。程よい距離感に支えられた素朴な観劇の楽しみはここにはありません。漆黒のユーモアに笑わされながらも、ふと深淵を覗き込んでしまいヒヤリとさせられる感覚。娯楽性とそこに収まりきらない不穏さが同居します。
本作冒頭、ガクとサトルが部屋で映画を観ています。感想を語り合う二人。饒舌なガクと口の回らないサトルは対照的です。したり顔で語るガクの姿は滑稽で、観客の笑いを誘います。ここに映る「映画を観て感想を語る姿」は、程よく戯画化された私たち自身の映し鏡でもあります。
「鏡」のモチーフは本作各所にちりばめられています。ガクのセリフを抜粋しましょう。「映画って再確認でしかないよな、やっぱ。人はそれを観たいようにしか観ないっていうか、どんだけ有効なメッセージを発しようが、もとから受け入れる素地の無いやつには無意味。そうじゃなかったらより多く映画見てる人間の方が、より良い人間って事になるからさ。どう考えてもそうじゃないし。むしろ頭の凝り固まったバカのほうが多いだろ」。この言葉は、主体と客体の断絶を示唆します。あらゆる事象は孤立している。森羅万象は主体の投影に過ぎない。ガクは独我論に嵌まり込んでいます。彼の世界には彼しか存在せず、世界は自身の映し鏡です。サトルをじっと「観る」ガクの表情は印象的です。それは魂の所在を探るようでもあり、鏡に映る自分を眺めているようでもあります。ガクは他者の存在を認めたい気持ちと独我論との間で揺れているのでしょうか。
サトルは鏡のような存在です。感想を求められても自らの考えを示さず、ガクの言葉を反芻します。妻ナツキの前でも明確な意思を示しません。ガクやナツキを映す鏡像であり、「観られる」側にとどまります。彼は「観られる」対象としての映画のメタファーでもあります。
鏡像としてのサトルが本心らしきものを自覚するとき、物語は加速します。他者を「観る」立場を得たサトルはナツキを冷酷に切り捨て、ガクの家を訪ねます。並んで映画を観る二人。ガクは言います。「お前、そんなに映画好きだったっけ?…俺らってそんなに友達だったか?」サトルはガクを泰然と観て、静かに返します。「もし違ったならこれからそうなればいいんですよ…僕は、変わりましたよ。」
客体と断絶しているガク、客体を反映しているサトル。遠すぎて、あるいは近すぎて他者を認識できないという点では二者はよく似ていました。二人はしばしば一緒に映画を観ていましたが、それぞれは孤立の極地におり、互いが互いの事を実は全く知らなかった。そんな二人の日常がゲシュタルト崩壊を起こす本作のハイライトです。ガクにとってはコピーロボットの様な鏡像に過ぎなかったサトルが、実体ある他者らしきものとして立ち現れる。他者であるのか、依然として鏡像なのか、隣り合って座っているソレは何なのか、何れにせよゾッとさせられる深淵を目の当たりにさせられます。しかしながら、直後、激高したナツキがやってくると、サトルは再び以前の無害な鏡像へと逆戻りします。ナツキに無理やり連れ戻されるサトルを見送ったガクは再び映画に目を戻し、客体と断絶した「観る」主体へと立ち戻るのです。
「観る」主体と「観られる」客体との断絶を描く本作ですが、「観る」主体を揺り動かす他者たらんとするかのように、ぎりぎりの所まで視聴者にコミットしようとする工夫と熱を感じさせます。エンターテイメントと異様。両立し難い要素が、見事な塩梅で練り上げられています。
調和する身体 ―『おぼろな記憶』『A New Town』『傷みの実感』
映画はある物語を伝えますが、時に過剰になった物語は演者を束縛します。束縛が過剰になると、それを演じている人物の生(ナマ)の感じを殺してしまいます。例えば、学芸会で披露される「白雪姫」にしばしば興覚めしてしまうのは、あまりに演者と役柄が乖離しているためでしょう。それでも上手な演者であれば、与えられた役を何とか乗りこなそうとします。しかし、それは日本人が外国人を演じるという前提条件からして、まず困難が予想されます。最悪、役が演者を「上滑り」し、独り歩きした果てに、演者の生(ナマ)の感じまで殺してしまいます。「白雪姫」は極端な例えですが、このような「上滑った」映像作品は、大手配給会社の映画等も含め、枚挙に暇がありません。
それでは、いかにして演者と役の一致を図るのか。その手法の一つとして、ドキュメンタリー的な発想の逆転があります。すなわち、キャラクターに演者を当てはめるのではなく、ある演者をもとにしてキャラクターを当てはめる。うまくすると、役と演者が絶妙に溶け合い、素晴らしい化学反応を引き起こします。
こうした創造の方法が活かされた作品の一つとして、酒井章光監督作『おぼろな記憶』が挙げられます。本作は、監督自らが発達障害を抱える自身を基にしたキャラクター・筒井を主演する、個人的な記憶に基づいて制作された映画です。ドキュメンタリーとしてのインタビューパートと再現ドラマパートが入り組んでおり、ドラマパートでは自身の記憶を再現するかのような荒削りな撮影、録音、編集が、視聴者に主人公の主観へと同調させることを促します。インディーズ映画らしい尖った作風でありながら、本作が視聴者を置いてけぼりにしないのは、何よりも当人が当人を演じる(再現する)という力技によって、キャラクター筒井の量感と質感、その存在感をしっかりと裏打ちしているからです。筒井は、過剰とも思えるほど、事あるごとに地面に倒れこみます。しかしながら、その存在感ゆえに妙な説得力があり、少し童話めいた不条理な物語が一層視聴者の心を揺さぶります。イマジナリーフレンドのようにも思える江藤というキャラクターを追って走り出すラストカットは、荒々しくエネルギッシュで、観る者を魅了します。
小池勇瀬監督作『A New Town』では、キャラクターたちは演者という肉体を得て(もしくは演者はキャラクターという輪郭を得て)、実に生き生きとした存在感を放ちます。おそらく一部ドキュメンタリー的な手法も交えながら(サクの母親役はミュージシャンという設定で、演者も本物のミュージシャン)、本作の登場人物たちは、映画という虚構の世界において、ある強度を確立しています。人物がくっきりと立ち上がると、初めて映像に映りこんでいる人物以外のすべてと調和がとれます。なぜなら、演者以外のすべて――木々や高層マンションや小鳥の囀りやくすんだ空模様――森羅万象は、カメラの前で実体と役が乖離することのない事物としての強度を自然と保っているのですから。
人物がカメラに映りこんだ森羅万象と調和し、そのぎこちないノイズが消えるとき、静かに浮かび上がってくるのは、人物とその環境が調和した総体、「A New Town」と漠然と名づけられた巨大なオブジェクトです。サクやその母、ユキ等、ここに生きる人物は、それぞれ大小の心の穴を抱えています。そしてそれは、彼、彼女らの暮らす町と調和して生きる登場人物として、妙にしっくりきています。父の事故死を目撃したことを原因としているのであろうサクのチック症は、一個人の死など何事もなく吞み込んで時計のように整然と回り続ける巨大な町に対するカウンターバランスとしての適度な五月蠅さ、必然として起こる身体からのリアクションのようにも感じさせます。また、サクの母が音楽を作ることや、ユキが小さな嘘を重ねることは、こうしたリアクションの延長線上にある行為、巨大で閑静な町に対するゲリラ的反抗のようにも捉えられます。サクがユキとともに、深いトラウマとなっているトンネルを駆け抜けるラストシーンは、サクにとっての能動的なレコンキスタの第一歩であり、決して押しつけがましくない静かな感動を呼び起こします。
山科晃一監督作『傷みの実感』においてもまた、この物語の舞台となる東京スカイツリーのそびえ立つ都心の下町自体が、一つのキャラクターとしてしっかりとその存在を主張しています。主人公・洞爺は精神の安定を欠いており、いつも酔っぱらっています。しばしば気が抜けたようにフェンスや高架下の壁にもたれかかり、酔いつぶれて地べたに寝そべってしまう。その体幹の脆弱さは、『おぼろな記憶』の筒井とも重なります。この物語におけるフェンスや壁、商店街の路地裏等は、ただの舞台装置以上の強い主張を感じさせます。水平の見通しが悪いこれらの空間は、微かな圧迫感を与え続けます。また、作中しばしば東京スカイツリーを仰角でとらえたショットが印象的に差し挟まれることで、この舞台の立体的な縦構造、すなわち重力を一層視聴者に感じさせます。洞爺をはじめ、本作に登場するキャラクターたちは、巨大な都市の「底」で肩を寄せ合い暮らしている。そんな印象が刷り込まれます。
巨大な都市からの不断の圧力により、本作に登場するキャラクターたちは一層切羽詰まっているように見受けられます。切羽詰まり、時に我知らず他者を加害してしまう。そんなキャラクターたちが、加害者である自分を直視する。加害する我を見つめることで、自他の境界が立ち上がり、他者は輪郭を持ちはじめる。『傷みの実感』とは、他者を認識しその「傷み」を引き受けるまでの物語なのです。
他者を認識するということは、もはや無垢ではいられないということでもあります。共感するか否かを選ぶ以前に、「傷み」はすでにこちら側に届いている。酔いつぶれ、力なく地べたに寝そべっていた洞爺は、本編終盤、地面を蹴って走り出します。それは重力から逃れるためではなく、重力を引き受けるための運動に見えます。生きるとは、地面という他者の硬さを「傷み」として受け止めることです。本作はその「傷み」を回避するのではなく、獲得する物語として幕を閉じます。
ここにピックアップした三作品に共通しているのは、最後に主要キャラクターが走り出すという点です。「走る」という、根源的かつエネルギッシュな運動に物語を集約させる。映画的な表現方法が明確な意志をもって選択されており、その三者三様の切り取り方の違いに興味をひかれます。
一と多 ―『おかえり ただいま』『あるきはじめて』『森へ』『Gavi』
映画の多くは、人と人とのコミュニケーションから起こるドラマを注視していますが、このコミュニケーションの在り方は、しばしばその人間の帰属する文化によって規定されます。不条理には怒り、悲しみ、心ときめけば素直に愛を伝え合う。そんな、思いを言葉や仕草で直に表現する文化もあれば、より婉曲な表現がしっくりとする文化もある。人物の視線や位置関係で語り合う。そんな婉曲表現を、事物を光学的に記録する映像メディアは上手く掬い上げることができます。
山口真凛監督作『おかえり ただいま』に描かれる物語は、言葉や仕草による感情の発露にオープンな文化圏の人間からすると、かなり異様に映るのではないでしょうか。永く失踪していた母・朝子がある日、連れ子・塁と共にひょっこりと帰ってくる。ともすれば修羅場、あるいはサスペンスドラマにでも発展しそうな展開ですが、本作が面白いのは、この家族に一見して劇的な展開が訪れない点です。失踪した朝子を必死に探してきた父・拓司も娘・ゆきも、朝子を強く叱責しません。日常を通常運転していこうとする慣性が働き、「家族」を再現するかのようにギクシャクと食卓を囲みます。
この食卓の風景と対照的に描かれるのは、ゆきが自動車学校の馴染みの教官と過ごす時間です。運転席と助手席、互いの視線が交わらないポジションながら、二人は打ち解けあっています。向かい合うのではなく、縁側で庭を眺めながらぽつりぽつりと語り合う。そんな古い日本映画に描かれていたコミュニケーションの原風景を思い起こさせます。
本作終盤、朝子と拓司が打ち解けるシーンもまた自宅の縁側が舞台となっており、二人はぼんやりと庭を眺めています。この文化圏では、車や縁側から見える風景を介した婉曲的コミュニケーションのほうが、家族の食卓におけるダイレクトな会話のやりとり以上に、人間関係を育むという逆説が、本作では描かれます。風景は、言葉を反射し各々の気持ちを最適な落とし所へと導く柔らかい鏡のようなものなのです。『おかえり ただいま』は、文化やそこに規定されるコミュニケーションの在り方についての客観視を促す、とても興味深い作品となっています。
楠城昇馬監督作『あるきはじめて』においても、キャラクターの視線の向きは意識的に表現に取り入れられています。また、婉曲表現を描くのみならず、本作自体がとても屈折した語り口を実現しており、不可解な魅力を有した作品となっています。
結婚を目前としたケンタとリナ。このカップルの親密さは、互いを空気のように在って当然とする二人の場面に、繊細に描写されています。ピクニックに訪れた公園で、二人は何気なく肩を寄せ合います。ケンタとリナは、しばしばぼんやりと同じ方向を向いています。
しかしながら、二人の向いている方向が少しずつズレていく。視線のズレは結婚に前向きなリナとそうでもないケンタを描写することで、物語的に丁寧に説明されています。また、その映像的描写が際立つのは、二人がケンカ別れする決定的な場面です。家出して上手方向に歩き去るケンタに対し、それを追いかけるリナ。次に引きのカットが、リナのバストアップに切り替わる。このショットは、引きのカットが撮影されていたポジションの対面から撮影されており、上手方向に向いていたリナの視線は、必然的に下手方向へと反転されます。シンプルでありながら、二人の歩く方向が別れたことを示唆する効果的な演出です。
こうした繊細な技巧を感じさせる本作ですが、さらに特筆すべき面白い点は、原因と結果を繋ぐ因果関係の説明を、ある段階で放棄しているように見える点です。詳細な説明の代わりに、断絶されているかに見える原因と結果の間は、些細な「気配」を描写することで曖昧に接合されます。
終盤、ケンタとリナが二人で食した、あるマンゴーの残骸が映し出されます。次に、本作冒頭近くのカットと酷似した二人の朝の日常風景(厳格なまでに日が翳るタイミングまで、冒頭付近のカットと酷似したカット)、次いで下手方向から歩いてくるケンタのカットを挟んだ後、リナがやや上手方向から画面奥に向かって歩いていくラストカットが繋がり、そこにリナと別れた事実を淡々と語るケンタのモノローグが重なります。
マンゴーの残骸は、メタファーあるいはキャラクターの心象ではありません。このマンゴーはケンタが好ましい印象を持っている女性・サカモトから贈られたものです。この事実も相まって、マンゴーは、ただの残骸でありながら、原因と結果の間に横たわる断絶を、淡白な印象として緩やかに接合し、カップルの破局という帰結を感覚的に納得させます。このカットの次に繋がるのは、リフレインされる二人の朝の日常風景です。それは同じようでありながら決定的に異なっています。正確には、マンゴーに連なる編集の流れによって、異なって感じさせる仕掛けが施されています。
同様に、メタファー、あるいは心象風景として機能しない程度の「気配」の描写は散見されます。リナがケンタとのケンカの後、涙を流すシーンでは背景ボケした木々が強風にあおられてざわめいています。あるいは、ケンタが旧友マサキと過ごす夜の隅の暗闇。あるいは、ケンタがリナを見送った朝、ふと翳る部屋。
自然光を多用した撮影がもたらす繊細な陰影や木々のざわめき、風景、物質(映像というオブジェクト自体)が人物に対してある影響力を有して描かれているとも、換言できます。『あるきはじめて』のとてもユニークなストーリーテリングは、作り手、受け手双方のアニミズム的な感性に支えられています。視聴者を反映する柔らかい鏡のような本作は、こうした感性に依拠することで、説明過多を回避し、一層豊かな視聴体験をもたらしてくれます。
知多良監督作『森へ』で描かれる物語もまた、アニミズム系文化圏ならではの主題を扱っていますが、その方法は『あるきはじめて』とは大きく異なります。『あるきはじめて』がカメラに映りこんでしまった自然現象をうまく物語に取り込んでいるのに対して、『森へ』は人為的な演出によって、自然に宿る霊性の類を表現しています。前者には、そこに存在するものを最大限利用するドキュメンタリー的な方法が基にあるのに対して、後者は無いものを在るが如く見せる仕掛け、主にフィクション映画に培われた方法が根幹にあるように思われます。『森へ』は、マジックやトリックから連なる詐術、フィクション映画ならではの方法を用いるのに、特にふさわしい物語です。
本作の主人公・衣良は、ある出来事をきっかけとして、占いやスピリチュアリズムといった目に見えない世界を語る諸々に対して過剰な嫌悪を抱くようになり、物理や科学に基づくリアリティを頑なに信じています。衣良が嫌悪する目に見えない世界は、私たちの日常に溶け込んでいます。モーニングショーの星占いから、怪談、心霊等々の四方山話。寺社仏閣へのお参りやおまじない。日常に浸透し、習慣化した諸々は、衣良というキャラクターを通すことで可視化されます。他方、衣良の妄信している物理や科学に基づいたリアリティもまた可視化され、両者の可笑しみが炙り出されます。
物質主義的な衣良を、霊の世界へと導こうとするキャラクターとして、「見えないもの」を信じる衣良の母、そして、その母より受け継いだ先祖伝来の色打掛が登場します。ここに宿る霊性は、本作終盤、色打掛がひとりでに宙を舞う、という直接的な方法で表現されます。ここでは、人為的な匂いを脱臭しない、チープとも言える表現方法が選択されています。神秘をカメラに収める、あるいは映像的に「上手く」表現することを敢えて放棄する姿勢により、本作は現代日本における信仰の在り方を描く上で最適解とも思える語り口を実現しています。
本作が描き出す東京において霊が顕現する「森」は、乱立するビル群に取り囲まれ、人工的に管理された公園にあります。ネームプレートの下がった木々や細やかな繁みは、神秘的な諸々への確信をもたらしてくれる「森」と呼ぶには貧弱です。しかし、これこそが、モーニングショーの星占いのように、カジュアルなスピリチュアリズム、カジュアルな神秘、日常に溶けてしまった目に見えない世界そのものなのです。
信じているけれど、信じきれない。信じていないけれど、信じきっている。信仰する自分と、それを外側から眺め疑う自分。二者が両立する状態は、モノを消費/廃棄していく資本主義と、万物に霊を視るアニミズム、相異なる二者が渾然一体とした社会を生きる私たちにとっての肌感覚に近いのではないでしょうか。こうした肌感覚に忠実であろうとするのであれば、科学、神秘、いずれへの信仰も、主観的に切実、かつ客観的に冷めた目線で表現されなければなりません。神秘を人為的な痕跡を保ったまま仮構することにより、本作は素晴らしいバランス感覚で語り口をダブルスタンダードに保つことを実現しています。
ここまで日本人監督による日本を舞台とした作品を取りあげましたが、プサンの監督キム・ミングン氏による『Gavi』について考察してみましょう。本作は、韓国人監督によるスペイン人キャスト、スペインロケで撮影された交流WS作品となります。映画が、必然的に作り手や役者、舞台となる風土を反映するのだとすれば、多様な出自の製作陣から成る本作は何を反映し、そこではどんなドラマが語られるのでしょうか。
とあるスペインのホテルで清掃員をしているガビは、少し年上の女性客ロペスの部屋を清掃中に、彼女が紛失していたブレスレットを偶然見つけます。ガビと同じく、孤児院出身の同僚であるペドロはガビを諭します。「落とし物の意味を考えたことあるか。その物に無関心な持ち主の手から価値が分かる人の手に渡るだけさ。もらわれた物もその方が幸せだ」。ペドロは、孤児である自分達にきつく当たるホテルオーナーや、金に余裕のあるお客連中を敵視しています。ブレスレットをロペスに返却するか、それともペドロに従ってお金に代えてしまうか。その選択の間で揺れ動くガビが描かれます。
本作は一見すると倫理を問う物語の様ですが、その本質は少し異なります。ガビは自分を捨てたであろう母との再会を待ち望んでいます。しかしながら、一向に連絡を寄こさない母に対し、複雑な感情を募らせています。恐らくは道ならぬ恋をしていて想い人を待っているロペスの姿に、ガビは自身を捨てた母の面影を重ねます。ブレスレットをロペスに返却するのか、それともお金に代えてしまうのか。その判断は、倫理観に依りません。ロペスに重なる母の面影とガビとの心の距離感に、その判断は委ねられています。逆に言えば、ガビの判断とそれに基づく行動を観る事で、彼の心の動きを読み取る事ができます。
言語による説明ではなく映像として目に見える要素、キャラクターの行動が、その感情の動きを、ドラマを物語ります。映像とは、千差万別の言語とは異なり万人が観れば分かるという、普遍性を持ったメディアです。表現手法が映像描写に依っている事、また、多くが経験する思慕を巡る主題が描かれる事により、本作は文化間の差異を跨ぎ大多数に受け入れられるであろう普遍性を獲得しています。
気配や霊性といった土着的な曖昧さではなく、誰にでも伝わり得る普遍的な明確さに、本作は依拠しています。個々のカットは実に洗練されており、その多くは何を表現したいのか、はっきり汲み取れます。それは、多国籍から成る制作チームゆえに、綿密なディスカッションが重ねられた上で制作されているからではないでしょうか。結果、言語ではなく行動によって物語るドラマへと結実するのが興味深くもあります。
【文/小池篤史】

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