2025年3月21日(金)~23日(日)に開催される第二回山国映画祭。全国公募より選りすぐられた佳作7作、コンペティション作品6作のレビューを掲載します。あくまで筆者の解釈であり、ある程度内容に踏み込んだ記述もあります。まっさらな気持ちで映画を楽しみたい方は、鑑賞前に本文に目を通されるか否か、ご一考ください。
面を線でなぞるように、とても語り尽くす事などできない。
そんな強靭な作品ばかりとなります。本レビューが上映作品を一層楽しむための、僅かばかりのスパイスとなれば嬉しく思います。
私たちの千秋楽

「芸術は現実をうつしだす鏡ではない。芸術は現実を形作るハンマーだ。」
『私たちの千秋楽』において繰り返し強調される、ベルトルト=ブレヒトの言葉は、そのまま本作の解説となっています。
とある劇団の演出家、魅子は、所蔵俳優である竹内と恋人関係にあります。竹内はかつての恋人への想いを引きずっており、魅子との結婚に踏み出せません。魅子は、竹内に元彼女との物語を演じさせる事で、竹内の心の膿出しを試みます。演劇で現実を変えようとする。つまり「現実を形作るハンマー」としての演劇を実践しようとします。その演劇ができていく過程自体を、演劇化していく。魅子自身も「演出家・魅子」としての役を演じます。しかしながら、やがて演劇は作り手である魅子の思惑すら越えた現実を形作っていきます。こうした芸術/フィクションの持つ力のダイナミズムが、ワンシーンワンカットの長回しで印象的に表現される、中後半のシーンは必見です。一つの長いカットの中で、移り変わっていく「フィクション」と「リアル」が、滑らかなグラデーションでスリリングに描写されます。
終盤クライマックスで魅子は「オッケー」と呟きます。「オッケー」の掛け声は『私たちの千秋楽』という物語において、「演出家・魅子」というキャラクターを魅子自身に引き戻す魔法の言葉です。しかしながら、本作においては「オッケー」の掛け声で、「演出家・魅子」を演じていた魅子自身は戻ってきません。魅子は「演出家・魅子」であり、演出する者と演出される者、二者は混沌と混ざり合います。徹頭徹尾、「現実を形作るハンマー」としての映画/フィクションの持つ力が意識的に表現されており、本作の考え抜かれた構成と、難しい役どころをこなす役者達の力量に驚かされます。
あの灯に帰ろう

『あの灯に帰ろう』という本作のタイトルには複数の意味が込められています。「あの灯」は「在りし日」であり、「灯」はトモシビでもあります。本作は、「灯」を点してじっと誰かの帰りを待っている人間に向けた厳かなエールを感じさせてくれる、そんな優しい眼差しを持った作品です。
本作の主人公ナミは、とある地方都市で「ランプ」というバーを切り盛りしています。若年性アルツハイマーの姉との二人暮らし。また、お客さんの拠り所であり、亡き母や姉との大切な思い出の詰まった「ランプ」も守っていかねばならない。生活の重みがどっとのしかかり、彼女は少し人生に疲れている様です。
ナミと対比して描かれるのは、売れっ子の写真家として各地を飛び回っている学生時代の友人クルミザワです。華やかに見えるクルミザワの人生は、生活に追われる主人公にとって望むべくも無いものに思えます。二人の関係は『男はつらいよ』の寅さんとさくらを思い起こさせます。しかし、本作がフォーカスを当てるのはフーテンのブルースではなく、さくらの様な在り来りの生活者のブルース、誰かの帰りを待つ人間の哀愁です。
生活の労苦は、魔法の様に解消される事は概してありません。しかしながら、小さいけれど確かな変化の訪れの瞬間が、本作ではリアリティを損なわない絶妙のバランス感覚で、とても上品に切り取られています。その訪れは、じっと待っている人間だからこそ感じられる微かなものです。時間は万象に変化をもたらしますが、その変化の機敏を敏感にキャッチし、細やかな兆し一つ一つに一喜一憂できるのは、「お帰り」と誰かに言う側の人間、待つ人間の特権なのかもしれません。
サヨナラホームラン

コントラストが強調される、暗く引き締まった映画的な色彩からすると、やや明るく「眠い」印象の映像で描かれる『サヨナラホームラン』は、不眠症に悩まされる、眠い男の物語です。三十路に差し掛かった松山は、都市部でフリーター生活をしており、彼の働くコンビニではいつも当たり障りのないイージーリスニングミュージックがかかっています。彼が夜勤明けにコンビニの廃棄弁当を食べる土手。そこから見渡せる広場では草野球がのどかに行われています。淡い色彩の映像と相まって、小春日和の様な気の抜けた雰囲気。都会で一人暮らす孤独な男の物語を語るのには相応しくないようでいて、その実、とてもマッチしたムード作りです。欠伸がでそうな平穏、その半面、閉塞した日常。松山は、人知れず我知らず病んでいるようです。
本作終盤、目を血走らせ金属バットを携えた松山が街を彷徨います。一触即発に思えるこうした場面ですら、出くわす人々の多くからは、彼に対する強い危機感は読み取れません。人々はどこか呑気であり、日常が永続する事を心の底から信じているように見えます。バット手にした危ない男に対してかける言葉は「なんか臭い」であり、それは依然としてちょっとした違和感、日常の範疇なのです。怒りに震える手でバットを握りしめるショットの背景には、いつものコンビニのイージーリスニングミュージックが流れています。寝ぼけた日常の風景をグロテスクなものへと異化させる素晴らしい演出の数々です。ヒーローインタビューに憧れていた松山の憤りは、自身が主役になる事ができない社会に対する「根源的な疎外感」とでも言えるかもしれません。こうした憤りは誰にも解されることなく、やがて暴発します。本作は、平穏な日常そのものが孕む狂気、即ち異物を見えないものとして排していく静かな暴力性を炙り出す事に見事に成功しています。
チコ

身近な存在の死は、「悲しい」の一言では表現しきれない、複雑な感情を孕みます。死は、生者にとって永遠に不可解なものであり、不可解なものは恐ろしい。なるべくなら遠ざけておきたいそれは、現代人にとってはケガレに近い感覚とすら言えるかもしれません。身近な存在が亡くなった時に感じる感覚。悲しい。しかし、恐ろしい。直視したくない。忘れたい。でも、忘れたくない、忘れてはいけない。死別を巡る相反する感情を、約9分という短尺にギュッと凝縮して描写しているのが、本作『チコ』となります。
死に初めて触れた経験として、愛犬、愛猫との死別の記憶を思い起こす人も多いのではないでしょうか。ペットと暮らした家には、犬猫の毛があちこちに遺されています。本作の主人公である少年、ハジメは、愛犬「チコ」の残滓を懸命に拭い去ろうとする、その半面で、チコとの思い出を忘れられない、忘れたくない。ハジメは相反する感情に引き裂かれおり、それは幾つかの強迫的な行動として描写されます。
奇妙な音からスタートする作中のシーン。この音の正体は、ハジメが粘着テープを使って衣類に付着したチコの毛を執拗に取り除こうとする音である事が、やがて判明するのですが、何の音かが分からないカット冒頭の段階では、ホラー映画の雰囲気すら感じさせます。得体の知れない音をカット冒頭に置く事で、視聴者に気味の悪さ、怖さを感じさせる。死という不可解を前にしたハジメの心情と視聴者の感覚をリンクさせるカットです。本作は、全編を通してただ沈痛なだけではなく、時に気味悪さすら感じさせる演出がほどこされており、それはハジメの主観を視聴者に追体験させる試みなのかもしれません。
ラストシーンでは、どこか浮遊感を感じさせるBGMが、作中初めて解放されます。このシーンの躍動感が一層効果的に観客に響くのは、これまでの重く禁欲的なプロセスがあったからこそでしょう。本作は、こうした緻密な構成により、短尺ながら、鑑賞後に素晴らしい余韻を残してくれます。
緑閃光

カメラという機械は、現実の表面を光学的に記録するのみで、人や事物の内面を撮影する事はできません。映像に映される表面、例えば人の表情などから、その内面、心や感情を想像する事はできますが、心そのものを見て確認する事はできない。これはカメラという光学機器の限界ですが、この制限をうまく利用して、素晴らしい映画体験を私たちにもたらしてくれるのが、本作『緑閃光』です。
本作は、夫婦である薫と美波が南房総に緑閃光という稀な自然現象を見に行く一日を描いた物語です。二人が仲睦まじくデートする、表面的にはそれだけの映画ですが、二者の心の内、水面下ではある葛藤が在る様です。妻、美波はしばしば、歯並びの良くない娘に歯科矯正をさせたい旨を夫、薫に伝えます。美波は自身の歯並びの悪さにコンプレックスがあり、娘に同様のコンプレックスを負って欲しくない気持ちがあります。しかしながら、歯科矯正に関する話題を振る度、薫は答えをはぐらかします。薫の真意は、言葉や行為で明確に描写される事が無いため、いま一つはっきりしません。また、欠伸する美波の歯をじっと見る薫目線のカットが意味深に挿入されます。薫が美波の歯並びを、疎ましく見ているのか、或いはチャーミングな魅力の一つとして捉えているのか、よく分からない。薫は果たして娘に歯科矯正をさせたいのか、させたくないのか。
本心を語らないというギミック一つで、本作はぐっと立体感を増します。薫の心が見えないため、視聴者はその発言、その行為の真意を読み解こうとする。ジリジリとズームインしていく夫婦間の会話カットには一抹の危うさを、人気のないデートコースにはサスペンスの気配を、感じさせられる事になる。これらは仲良し夫婦の小旅行という明るい基底音に入り交じる微かな不協和音です。崩壊の予兆を、語るのではなく仄かに感じさせる。心を映す事が出来ない光学機器としてのカメラの限界を逆手にとる事で、観客に考察を強いる老獪な演出です。本作の結末は、ぜひ皆さんの目でご確認下さい。
Living

『Living』は、家族を家族足らしめる絆あるいは枷について、家族という集団の不可思議さについて、視聴者に思考を促します。壊れてしまった家族の元凶はどこにあるのか。社会からドロップアウトした自身の弟を被写体としてスタートする本作ですが、やがて作者は父母にカメラを向けるに至ります。作者は父母こそが、弟や家族を壊した原因だと考えていますが、弟は父母を愛しており、作者の考えに否定的です。カメラはこうした入り組んだ現実を理解するためのツールとなります。父のモラハラとも言える息子への言動が、カメラに冷静に記録される傍ら、カメラを回し続ける作者自身の姿が自撮りされます。精神安定剤を飲み、向かいのマンションの窓に映る自身の影にズームインしていくショットは、壊れた家族を撮影し作品化しようとする自己に対する批判的眼差しのようにも思えます。家族の一員としての主体と、ドキュメンタリー作家としての主体。時に遠慮がちなカメラポジション、時に被写体にズームしていくカメラの挙動等々には、当事者と観察者、二者の間で揺れ動く作者の息遣いを生々しく感じさせられます。こうして撮影された映像は作中で被写体に公開され、被写体は自身の映り込んだ映像を観ることで新たな言葉を紡ぎ出します。作者にとってドキュメンタリー制作は混沌とした現実を理解し、停滞した時間を前に進めるためのツールなのかもしれません。
家族内の愛憎入り交じる感情のもつれは、簡単には解きほぐされません。しかしながら、確かな状況の変化は刻々と描き出されていきます。それはドキュメンタリー制作自体が少なからず現実に影響を与え促した状況変化であり、撮る事、表現する事のダイナミズムが本作には丸ごと記録されています。
Switchback

愛知県大府市という実在の街を舞台に、そこに暮らす少年達をキャストに据えて制作されたフィクション映画『Switchback』。実在する人や場所を用いながら、ある物語を描き出そうとする本作は、物語、国籍、歴史等々の広義のフィクションを巡る示唆に富んだ考察を促します。
物語冒頭、地域プロモーションのために、東京から大府市にやってきたソーシャルブランディングプランナー岸谷レイが、地元の少年達と一緒に映像制作をしています。岸谷達が作ろうと試みているのは、ボールが街を転がっていく映像を逆再生にする事で、街をボールが駆け回っているかの様に見える映像作品です。岸谷は、映像制作の理由を以下のように説明します。「転がっているものが登っている様に見えたり、裏だと思っていたものが表だったり、なんか世界がひっくり返っているみたいで、安心するよね」。岸谷にとってのフィクションとは、捉え難い世界の摂理を、人にとって親しみやすい言葉へと変換する装置なのです。「双子だから足の速さも同じ」「背が高いからバスケが向いてる」。このような外見で他者を決めつける日常的なレッテル貼りから、人種国籍、歴史に至るまで、あまねく人の営みにはフィクショナルな要素が絡んでおり、それは人に安心感をもたらすための装置である可能性が本作では示唆されます。
これら巷に溢れるフィクションは人に安心感を与える一方で、個々のアイデンティティを規定し束縛するものである事が、少年達の葛藤を通して本作では描き出されます。少年達は、フィクションに惹きつけられながらも、周囲から押し付けられるそれにイライラしています。フィクションとは、不条理かつ全体把握できない世界の一部を切り抜いたものであり、必ずしも世界そのものと隔絶して在る訳ではありません。少年達は、様々な世界の断片との葛藤を経験しながら、世界そのものとの折り合いのつけ方を身に付けていきます。実在の街、少年達を被写体として切り抜く事で作り上げられたフィクション映画『Switchback』は、その在り方自体もまた、そのまま作品内容の批評となっており、本作の精緻な造りに目を見張らされます。
ゴールド

「マッチョイムズム」とは、男らしさを誇り重要視する考え方の事ですが、『ゴールド』では「マッチョイムズム」は人間同士の「マウント」の取り合いにまで分解して描写されます。他者に対して結果的に「マウント」をとる状況というのは、老若男女、シチュエーション問わず、社会で散見されます。しかし、必ずしも個々人の性格や考え方が「マウンティング」を生むわけではありません。社会的動物としての人の欲望、その必然的な帰結として「マウンティング」が起こっているリアルを描く本作は、多くが共感可能な恋愛映画としての広い間口を持ちながら、現代社会批評にまで繋がる深みを獲得しています。
本作の主役、ミキと弘樹、社会のミクロな単位である二人のカップル関係に着目してみましょう。出会ってから暫くの間はお互いがお互いに夢中であり、幸福な一体感を得ていた二人ですが、お互いを愛しているからこそ、それぞれの自由を尊重しなければならない時がやって来ます。互いが自由である限り、個々の歩む速度や向かう矛先は自ずとズレていく。ズレる事で、お互いがお互いにとって、少しずつ他者となっていきますが、それでも尚、一体感が永続する事を望む時、ここにマウント関係が出来上がります。己れの価値観や社会的価値等々、ズレてしまった二者を、一つにまとめあげるための力学。強い立場の者が弱い立場の者を自身の色で染め上げるマウンティングが、再び二人が一体化するための一つの妥協案となります。一体化の永続を望む事と、互いの自由を尊重する事。共に愛に紐付いた行為ですが、この二者は愛する事の根元的自己矛盾を孕みます。
弘樹が揶揄する所の「軍隊みたいな」彼の職場は、ホモソーシャルな男社会として描かれます。外国人や異分子を排除しようとする職場仲間達は、露悪的かつシニカルに描写されますが、ここにも根底には一体化への欲望が働いている事が、「向こうも場を和ませようと冗談で言っている」という弘樹のセリフから推察できます。職場内マウント行為もまた、同胞愛に紐付いている事が暗に示唆されます。
このようにマウンティングは、カップルから職場関係に至るまで人が寄る所には、ほぼ確実に何れ起こるという事、そして、そこには愛の一側面、他者との永続的な一体化への欲望が根底にある事を、本作は看破します。つまり、本作における弘樹の様にマウンティングの全てを拒絶するのであれば、他者との一体化、正確にはその永続を諦めなければなりません。ラストシーン、弘樹が説く「線ではなく点」で捉える幸福論は、旧態依然の価値観からすると、ニヒルにすら感じられるものかもしれません。しかしながら、それは働き方や恋愛、男女関係等々社会活動にまつわる全てがリベラル化していく現代における最適解の一つを射抜いており、作者の慧眼に感服させられます。
本音と建前は嘘と真実

『本音と建前は嘘と真実』は、その大半のシーンが、同一ポジションからの狂ったような長回しにより撮影されています。また、場面転換は乏しく、約100分の長編のほとんどが会話劇で構成されています。しかしながら、本作はその挑戦的なスタイルにも関わらず、びっくりするほど視聴者を飽きさせません。コミカルかつシニカルな、人間に対する洞察に富んだ会話劇は視聴者の目を釘付けにします。また、ミクロな会話劇にフォーカスを当てながら、性、家族、個人と社会等々、様々な切り口から考察できる物語であり、その脚本密度に驚かされます。
ある日、コミュニケーションに悩む主人公サエの前に「監督」と名乗る男が現れ、サエのコミュ障を矯正していきます。「監督」のおかげで、コミュニケーションでの間違いを犯す事は無くなっていく一方で、サエは自分の気持ちを素直に伝える事が出来なくなり、サエの心には少しずつ歪みが蓄積されていく。また、サエのみならず、サエの家族、父母や兄もまた、同様の歪みを抱えている事が作中で明らかになっていきます。彼らは、良い家族を演じながら、こうした歪みのはけ口として、大人しいサエにそれぞれの本音を吐露していくのです。彼らはサエに対して、良い子のレッテルを張り、彼女を無意識に束縛します。
本作における「監督」とは、自身を見張る存在であり、それはサエに内化された世間の目、とも言い換え得るものです。世間とは、サエを含む個々人の総意によって作り上げられています。即ち、サエを束縛しているものは、皆に予定調和を演じてほしいと心のどこかで願っている、サエが自身に向ける眼差しでもあるという事です。故に、サエは和を乱さない、乱すことができない。人生のドラマを外から眺める傍観者なのです。そんなサエの姿が、そのまま観客席で本作を鑑賞している私たちに対する問いかけとなる、本作後半の直情的な展開が訪れます。私たち自身もまた、世間からの束縛にうんざりしている被害者であると同時に、予定調和な世間を構成する加害者である事が、「監督」により文字通り告発されます。ここにおいて映像に映り込んだレンズゴミは、視聴者にカメラの存在つまり「本作を鑑賞している私たち」を意識させるための仕掛けであった事に、はたと気づかされます。本作における狂ったような長回しは、世間、観客、シナリオ、それらが望む予定調和からはみ出す生々しさを表現に取り入れるための勇敢な挑戦なのではないでしょうか。つまり、時に役者がセリフを言い淀む、こうした場面すら表現の一環として作中に意図して取り込まれているのかもしれません。調和と混沌、相対する二者を矛盾を孕んだまま強引に縫い合わせた所に『本音と建前は嘘と真実』は在ります。そのクレバーかつ荒々しいパッションは、インディーズ映画の真骨頂を感じさせてくれます。
ライフ・イズ・ビューティフル・オッケー

中華料理店で働く男、牧原と、彼が見守ってきた木下家の遺児たちとの物語『ライフ・イズ・ビューティフル・オッケー』は、人生に対する深い洞察に満ちており、静かな感動を呼び起こします。
「俺、子どもの頃からずっと大人なんだよ」と自らを述懐する牧原は、木下家の遺児である三姉弟から、「おじさん」と呼び親しまれています。木下家の長女、美和は、仕事に就かず未完の物語を書き続けています。そんな美和を、牧原は急かすでも、説教するでもなく、ただ静かに見守ります。木下家に対する縁や恩から来る責任感が、いっそう彼を大人らしく振舞わせるのでしょうか。絶妙の距離感とバランス感覚で、壊れてしまいそうな三姉弟の絆を保ってきた牧原からは、大人を演じる事の尊さが滲みだしています。
大人が大人らしくある事は、時に周囲に歪みをもたらします。牧原が居心地の良い場所を用意してくれるおかげで、美和は安心して物語の執筆に励むことができます。一方で、勇気をもって人生の新しい一歩を踏み出す事ができないのは、その居心地に拘泥してしまうからでしょうか。亡き父母、牧原、その優しさや縁や恩。こうした諸々が、何時までも脱稿しない物語として、次第に彼女にとって呪いのようなものへと変わっていきます。
作中に、牧原の友人、波瑠夏というキャラクターが登場します。波瑠夏が不意にダンスを始めるという、ややエキセントリックな冒頭シーン。そこから一転して、次の場面からは、牧原の日々の営みが、執拗に反復して描かれます。ここで対置されているのは、子供らしさと大人らしさです。人に対する縁と恩、責務に拘束されている牧原と異なり、波瑠夏の行為は、自由と喜びに基づいています。誰かのため、何かのためではなく、自分が踊りたいから踊る。そんな彼女の子供の様な人生の楽しみ方は、ずっと大人を演じてきた牧原からすると、心惹かれるものかもしれません。彼女の影響を受けて、牧原は少しずつ変化していきます。勤めに精を出さなくなり、心おもむくままに自らを生き直し始めます。
子供の様に人生を生き直そうとする牧原により、美和もまた変化を余儀なくされます。本作序盤、店の食材を仕入れるため商店街の肉屋に向かう牧原のカットが何度か反復されますが、終盤では、牧原が不在のがらんとした商店街のカットが映し出されます。このカットの次に美和がキーボードのリターンキーに指を持っていくカットが繋がる。牧原がいなくなる時、あるいは彼が大人である事を止める時、美和が物語を書き終えるであろう事を、スマートに暗示させる素晴らしい編集です。こうしたカットの繋ぎからもたらされるラストの意味の膨らみは滋味深く、鑑賞後の余韻に浸らせてくれます。
姿

『姿』は素晴らしいバカンス映画であり、バカンスとは何であるのかという本質に触れる作品です。演出家を志すナナミが、戯曲の執筆に励むため、小さな港町のゲストハウスを訪れる所から本作はスタートします。ゲストハウスでは、大学院生リョウ、観光客アリナと共に滞在する事になり、そこに宿のフランクなオーナー、アラシも加わって、4人はバカンスの時間を満喫します。
「Vacance」とはフランス語で、「長期休暇」「休息」また「空席」「欠員」等の空き状態を意味します。休暇とは、日常生活に追い立てられない状態であり、日常生活で溜まった澱のようなものを一旦空っぽにするための時間です。休暇とは空虚であらねばならない。空虚である事で人は休暇を謳歌できるというわけです。バカンスを満喫するためには、むしろ日常に紐づく諸々の重たさは不要となります。
本作『姿』に話を戻します。バカンスを描く本作における登場人物4人の関係性もまた、必然的に空と虚に基づいたものとして描かれています。互いの仕事や肩書は表面的には明かされますが、その情報が事実であるのか否かは、登場人物たちも、また本作の視聴者も、確認する事はできません。4人のバカンスは底抜けに気持ち良く切り取られています。そして、それは互いが互いの日常を良く知らないからこそ成立し得る、羽の様に軽やかな自由、それと表裏一体となった空虚さに基づいている事が仄めかされます。アラシの愛の告白は、挨拶の如く軽やかです。それを受け流すナナミの言葉はどこか芝居がかっており、虚ろに響きます。毎深夜、ふらりと宿を出ていくリョウの行動は、視聴者にほんの僅かな不安感をコツコツと与えます。明るい日差しの下、楽し気にバカンスを満喫するキャラクター達、その内面は容易には見えてきません。登場人物達のアイデンティティに対する根本的疑問がやがて視聴者の頭にもたげる時、キャラクターの同一性の底を抜く本作終盤の展開が訪れます。底抜けに気持ち良く空っぽで虚ろなバカンスを描ききった本作『姿』は、何度も視聴したくなるような魔力を持った作品です。
May and June

「人生は映画になり、映画は再び人生になる。」
『May and June』は、フィクションとドキュメンタリーの臨界点を描き出します。スタイルとしてはフィクション映画である一方で、作中には糸島のアーティストインレジデンスに関するドキュメンタリーシーンが含まれます。しかしながら、韓国から糸島に取材に来るドキュメンタリー監督、プロデューサーはそれぞれ役者によって演じられており、大枠はフィクションであると言えます。また、役者達が、監督役、プロデューサー役の役作りを行う場面も描かれており、このシーンは再現ドキュメンタリー的なフィクションです。こうした具合に、本作はフィクションとドキュメンタリーが幾重もの入れ子構造になっている、非常に実験的な作品となっております。
実験的作品、というと何だか難しい映画かのように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。映画の心地の良いテンポ感や、映像の美しさ、役者の実在感、こういった映画を構成する要素の一つ一つが一級品であり、全く視聴者を飽きさせません。こうした丁寧な造りのおかげで、今、自分が現在観せられているものが、フィクションなのか、ドキュメンタリーなのか、その真偽は次第にどうでもよくなっていき、ただただ映画に身を任せる幸福な時間が訪れます。
作中で俳優が涙を流すカットがあります。それが、役を演じたものなのか、俳優自身の素(す)の姿なのか、もしくは、素(す)の姿すら演じられた役なのか。どれであるのかは、もはや全く気になりません。役であり役者であり、一人の人間である、ある人物の肉体の厚みをまるごと捉えているように感じさせます。ここにはフィクションとドキュメンタリーが溶解する瞬間が何気なく映し出されており、それを観て心動く感覚を、自身でもとても新鮮に感じます。皆様も、是非本作をご覧になって、映画鑑賞における新鮮な感動を実感していただけましたら幸いです。
fusion

『fusion』は、そのタイトルが示すように、此岸と彼岸の境界線を溶かしていきます。会社員をしている水斗は、小説家を目指す恋人、琴音と突如死別します。超自然的な描写や琴音との記憶は、現実と地続きに表現され、水斗の日常はその輪郭が曖昧な状態です。本作は、こうした日常のブレを映像媒体ならではのやり方で表現しており、物語を視聴者に感覚的に響かせる事に成功しています。例えば、本作の音響、水中のくぐもった音や透明感ある鐘のような音は、「音」を類推させる名前を持つ水斗(みなと)と琴音(ことね)、二人のキャラクターを想起させます。それは映り込んでいる対象と共振させるかの様に、時に感覚的に使用され、五感を通じて視聴者の心を揺さぶります。また、グリッチノイズ、微速ズームしていき収まりの悪い画角に帰着するショット等は、生理的な違和感を与えます。壊れたテープレコーダーやマシンの誤作動等の機械的なバグを想起させる表現が積極的に取り入れられており、それは日常が正常に営まれるための基盤に揺さぶりをかけます。本作ならではの、映像表現を用いた物語の語り方を確立しており、それは水斗が置かれている「此岸と彼岸の境界線曖昧な日常」を視聴者に追体験させるものです。
登場人物達の身体性もまた、本作のプロットによく活かされており、キャラクターに無駄に語らせる事なく、実に巧みに視聴者を物語世界へと誘導します。琴音の造形、暗色よりのアースカラーの服の色、裾広がりのシルエットなどは、ずっしりとした重たさを感じさせ、このキャラクターの持つシリアスさについて、またその不条理な突然死について、感覚的に視聴者を納得させます。どこか昆虫を想起させる水斗の黒目がちな目は、安易にこのキャラクターに共感する事を拒みます。水斗が突然死した琴音を忘却していく、その理由について推測はできるものの、作中はっきりと説明される事はありません。ただ安易な共感を拒む水斗の眼差し自体に説得力があり、視聴者はこの物語をすんなりと受け入れることになります。一方で、彼の内面に現在起こっている問題に関する説明的描写がない事で、視聴者が宙づり状態となる事に変わりはありません。この宙づり状態の居心地の悪さもまた、独特の映画体験であり、それすら本作ならではの身体感覚に訴えかけるストーリーテリングの一環なのかもしれません。このように本作『fusion』は、グロテスクかつ美しくもある、此岸と彼岸交じり合う唯一無二の作品世界に私たちを誘ってくれます。
【文/小池篤史】
コメント