第一回山国映画祭 コンペティション作品の見所

山国映画祭

2024年3月15日(金)~17日(日)に開催される山国映画祭。そのコンペティション作品の見どころを紹介します。なるべく各作のネタばらしは避けましたが、多少内容に踏み込んだ記述もあります。真っさらな気持ちで映画を楽しみたい方は目を通されるか否かご一考ください。映画祭最終日の授賞式にて、この6作品の中から最優秀賞と観客賞を発表します。観客賞は来場者の皆さまの投票により決定致します。映画鑑賞から授賞式まで楽しんでいただけましたら幸いです。皆さまのご来場を心よりお待ちしております。

『ペットボトルロケットが飛んだら終わり』

 「ネット動画」や「テレビドラマ」ではない、紛れもない「映画」であるとの確信を抱かせる堂々たる作品です。『ペットボトルロケットが飛んだら終わり』の陰影に富んだ画は複雑で味わい深く、暗中の大スクリーンでこそ最も映えるものです。
 本作の物語の底には「近親者との死別の悲しみ」がひっそりと横たわっています。その悲しみは、ベタ塗りの悲しみとして鬱々と表現される事なく、むしろ暖色系の明るさを感じさせる映像、ユーモラスな演出等で表現されます。こうした対照的な表現と結びつく事で、物語は奥行きを増し、画は立体的な陰影を帯びます。
 「ペットボトルロケットを飛ばす」行為には、複数の情報がぎゅっと濃縮されています。「宇宙ロケット打ち上げ」が象徴するような、集団とその科学技術を総動員して成す人類の夢、とは対極にあるもの。それは、きわめて個人的でつまらない、故に儚くも美しい夢です。また、作中の「ペットボトルロケット」の装飾は「死別した近親者」の服装を想起させるものでもあります。つまり、本作における「ペットボトルロケットを飛ばす」行為は、馬鹿馬鹿しくも美しい夢の実現であり、故人への追悼でもあります。そしてそれは、それまでのキラキラとした時間が「終わり」を迎える事を同時に意味します。これら幾層もの情報が重なる事によって、画は立体感を増し、本作ならではの深い味わいを残すのではないでしょうか。

【文/小池篤史】


『モンブラントラベラー』

 バラバラに撮影された映像を編集し繋ぎ合わせることで、観客の頭の中に立ち現れる物語。それを「映画」と呼ぶのであれば、『モンブラントラベラー』ほど「映画」らしい面白さを感じさせる作品は他にありません。一例を挙げると、本作中盤、ある男が本物のタイムトラベラーかどうかを見抜くための「合言葉」が登場します。この「合言葉」の具体的な文句がどのような内容であるのかは、主人公が知るのみで観客にも巧妙に伏せられています。そのため、作中でのタイムトラベルの実在を視聴者はいつまでたっても確信することができません。こうして、観た人の頭の中で様々な可能性が想像され、次第に豊かな物語が創造されていきます。「観客の頭の中に創造される物語」を前提に組み込まれた精緻なギミックは本作の随所に仕掛けられています。このギミックを最大限に利用したラストショットは、ぞっとさせられる切れ味です。皆さんの頭の中には、果たしてどのような物語が創造されるでしょうか。
 SFの皮をかぶった本作ですが、主人公、その友人である舞、舞の死んだ兄との関係、一種の三角関係が作品のコアとなっている事に気づきます。主人公と舞、それぞれの目線の向きで、各々の気持ちの向かっている先がユニークに描写されます。キャラクターの目線に注目するといっそう本作を楽しめます。

【文/小池篤史】


『院生と社会人』

「こういう人いたな」とか「あの時のあの雰囲気」とか、「映画」は時にリアルに肉薄する事で観客の忘れかけていた記憶を呼び起こしてくれます。『院生と社会人』が観客の記憶に触れるシーンに満ちているのは、本作がリアルを描くというシンプルにして奥深く困難な仕事を、驚異的な精度で成し遂げているからに他なりません。
 では、本作はどの様に観客にリアルを感じさせているのでしょうか。例えば「ペットボトルロケット」一つに様々な意味を重ねる比喩表現に富んだ作品と、本作は大きく異なります。映像は、そこに映り込んでいない何かの象徴である事を止めた時、目前の出来事を活き活きと伝えはじめる側面があります。登場人物の感情の揺れ、他者との間にふと張り詰める緊張感、張り詰めては弛緩する場の空気の移ろい。これら微細な要素が自らを主張する余地が生まれます。そして、日常意識的に観ることの少ないこうした細部が、まったく視聴者を飽きさせないどころか、如何に刺激的で面白いのか、という事に改めて気づかせてくれます。
 物語後半、酒に酔った「院生」と「社会人」二人のキャラクターが夜の街を歩くシーン。細かな編集によるコントロールを回避する、長尺のワンショット撮影です。だらりと弛んだ空気にふともたらされる本当の瞬間。親密さの中に訪れる疎遠さ。少しギクシャクとしながら弛んだ空気を尚も維持しようとする、身に覚えあるあの感覚。現実の時間が丸ごとパッキングされているようにすら感じさせる必見のシーンです。

【文/小池篤史】


『ぽっかりがらんどう』

 「映画」に登場する物や人、そのセリフや行為に至るまで、隅々にまで監督の意図が浸透している。『ぽっかりがらんどう』からは、そうした驚くべき強度を感じさせられます。
  物語の冒頭部、老婆・園子とホームヘルパーの青年・尚人がオセロゲームに興じています。この場面での園子のセリフ「白黒つけりゃいいってもんじゃないよ」。この言葉には監督の意図が凝縮されています。白黒はっきりした世界に対する、白黒曖昧な世界。それは園子と尚人、二者の暗黙の了解の上で成り立っています。相手を詮索しすぎないという、お互いに対する想像力と思いやりによって、ぎりぎりのバランスでこの平穏な世界は保たれている。そして、この平穏を保つためには、互いのプライバシーを守りながら孤立もまた深めすぎない適度な「仕切り」が大切となります。
 こうした視点から本作を観てみると、作中様々な「仕切り」が意図的に配置されている事に気づきます。尚人の寝泊りする「テント」から、日本家屋特有の「ふすま」、園子が想像力を巡らせるときにとじる「まぶた」まで、白黒曖昧で平穏な世界を保つために欠かせない大切な「仕切り」だと言えます。これらの「仕切り」、また「仕切り」が無遠慮に開け放たれる瞬間などに注意して本作を観賞してみるのも面白いかと思います。人・物・事が、主題を表現するべくタペストリーのように編み込まれた本作の凄みが感じられます。

【文/小池篤史】


『クチビルのはしっこ』

 鮮やかなビジュアルイメージの超現実感も相まって『クチビルのはしっこ』の執拗に繰り返される夏の放課後は終わりの無い白昼の悪夢のようです。
 悪夢の様な現実、或いは現実の様な悪夢。本作をそのように解釈するならば、作中強調されるのが「飛び降りる」シーンである事がストンと腑に落ちます。「落下する」感覚が夢からの目覚めを促す事は、皆さんも実感があるのではないでしょうか。悪い夢から目を覚ますために「飛び降りる」。主人公・ルカのクラスメイトが繰り返し「飛び降りる」のは、彼女にとっての現実が悪夢であるからです。
 ルカもまた、繰り返される放課後という「悪夢の様な現実 / 現実の様な悪夢」に閉じ込められます。ルカがそこから抜け出すためには、クラスメイトが「飛び降りたい」と願う「現実=悪夢」を変えてやらなければなりません。もつれ合った「現実」と「悪夢」を一朝一夕に解きほぐしてやる事は果たして可能なのか。本作は至高のエンターテイメントにのせて真摯な問いを観客に投げかけます。

【文/小池篤史】

 イジメを扱っていますが、イジメは駄目というわかりやすい物語にしていません。傍観者が一番ダメだと訴えているように感じます。最後の終わり方もなかなかブラックで今を表している演出でした。
 そして、飛び降りるヒロインを演じた女優、吉田美咲がとても印象的で、彼女を再びスクリーンで観たいと思った作品です。
 映画鑑賞後は古屋兎丸のマンガを無性に読みたくなり、久しぶりに「自殺サークル」を手にとりました。
 また、「ピクニック アット ハンギングロック 」(創元推理文庫)の原作を読みながら、ワタナベ監督ならばどんな映像になるだろうと妄想しました。いつかリメイクしてほしいです。

【文/小山早苗】


『そろそろ音楽をはじめようと思う』

 「映画」の登場人物を好きになり、その人生に観客も一緒になって一喜一憂する。『そろそろ音楽をはじめようと思う』は、そうした昔ながらの名画を思い起こさせてくれる珠玉の悲喜劇です。本作は実話をベースとしており、主人公は実在の人物を当人が演じています。リアルをうまく活かして利用するのは、小規模制作体制ならではのゲリラ戦術です。登場人物から、酒場やライブハウス等のロケーション、劇中音楽に至るまで、本作を形作る諸々が真に迫っているのは、それらが実在する事物と紐づいているからに他なりません。真に迫った人・物・事は、観客に物語を信じ込ませてくれます。
 『そろそろ音楽をはじめようと思う』という本作のタイトルからは、制作陣の熱い思いが伝わります。「音楽を売る」ことと「音楽をする」ことはコミカルに対比され、喜劇の内には悲しみが、悲劇の内には喜びが、それぞれ潜んでいる事が示されます。何かを失う半面、何かを得る。二者は表裏一体なのです。主人公が「音楽をはじめる」に至るまで、何を失い、何を得るのか、また作中で主人公の印象がどう変わっていくのか、皆さんの目で確かめてください。本作には「人はどうして表現をするのか」という根源的な問いに対する一つの答えが描かれています。

【文/小池篤史】

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