なぜ山国町でインディーズ映画祭を始めたのか。幾人かから、こうした疑問を投げかけられた。これまで、あまり明確に言葉にしてこなかった事ではあるが、この際、文章に書くことでその輪郭を少しはっきりさせようと思う。
メジャー?インディーズ?違いは何?
まずは、インディーズ映画とシネコンなどでかかっているメジャーな映画、その違いの本質はなんだろうか、と考えてみる。そもそも、作品の規模が大きく異なる。メジャーな映画であれば、製作、宣伝配給までを見越して巨額の資本が投入されており、そこには多くの人間がかかわってくる。こうした作品は社会的な生産物、言い換えるならば、人と人とのコミュニケーションの総体である。それは、制作会社、プロデューサー、監督、技術屋、営業、宣伝担当、パッケージデザイナーなどなど無数の人の手を介して、お客さんとコミュニケーションを図るべく、ひいては利益にするべく、製作される(超大作の長大なエンドクレジット!)。一方で、インディーズ映画の規模はピンキリではあるものの、比較的小規模体制での制作が主となる。極論すると、今日ではスマホ一つでも映画制作は可能であり、たった独りでもインディーズ映画は撮れる。
そもそも多数とのコミュニケーションを宿命づけられているメジャーの映画に対して、インディーズ映画は必ずしもそうであるとは言えない。利益を出さねばならないという縛りがない事、低予算である事、個人もしくは少人数での制作である事で、より個性的な世界観が露わになりやすい点がインディーズ映画の特徴の一つである。メジャーの映画のように、個性をマジョリティ受けするプロダクトへと多くのプロフェッショナルの手を介して洗練させていかない。故に、インディーズ映画は時に粗削りで剥き出しであり、とっつき難い作品も多い。しかし、その洗練され過ぎないゴツゴツと尖った状態こそがインディーズ映画の醍醐味だといえる。多数とのコミュニケーション能力こそは欠けるかもしれないが、こうした作品からは、社会のスケールから逸脱してしまう未知の手触りを時に感じさせられる。未知との遭遇は本物のスリルであり、行きつく先の読めない可能性そのものである。それはお約束の体験が保障される遊園地のローラーコースターからは概して感じさせられる事はない。
観て、考えて、話し合う
インディーズ映画の受け皿として、かつてより映画のコンペティションがある。山国映画祭もそうした数あるコンペの一つである。他の映画祭の内実は分からないが、僕たちは特に、表面的な作品の滑らかさ、とっつきやすさに目を奪われてしまわないよう、インディーズ映画だからこそ実現し得る未知の手触りとその可能性を見逃さないよう、作品審査になるだけ注意を払っている。実社会のみならずインディーズ映画の世界まで、コミュ力が幅を利かせるのは面白くない。コミュ障に見えても実(ジツ)のあるものを見抜きたい。それは、本文の書き手である僕自身が、作り手の端くれであり、これまでに受け手の能動性、「観る」善意により支えられてきた実感がある事が大きい。映画を受動的に「見る」のではなく能動的に「観る」。観察する様に真剣に「観る」。自身がひっそりと積み上げたものをしっかりと読み取ってもらえた時の感動、そうした感動をまずは作り手に向けてペイフォワードするつもりで本映画祭コンペを行っている。
作り手の個性と感性に歩み寄る。拘りに目を凝らす。意識的に、時に無意識的に、配置された作品内の仕掛けについて考える。結果、そこに曲解が生まれるのもまた、面白く思う。こうして映画を観て得た実感を他者と共有する。個々の作品から自分なりに発見した面白さを伝えたい。作品を観た各人が得た実感も是非聞いてみたい。映画を観て、考えて、話し合う。その一連の体験が映画鑑賞の一つの面白さである。インディーズ色の濃い映画ほど、個体性が際立つ。即ち、作品理解への障壁は大きい。歩み寄るのには時間がかかる。その反面、作品について考察する楽しみは大きくなり、他者に自身の解釈を伝える楽しみは増す。
共創する映画祭
映画を観て、考えて、話し合う、一連の体験の楽しさを促進するために、山国映画祭を主催している。審査員団の目線、観客目線、映画の作り手目線、こうした複数の目線でもって、上映作品を立体的に捉え直す。そこに様々な目線、普段映画に親しみのない人の目線なども入り交じると尚、面白い。故に「祭」の無礼講のように、なるべく多くの他者を招き入れた節操のない空間を目指している。伝統と集合知から成るローカルカルチャーと個の感性閃くインディーズ映画、特に隔たりある両者の目線が交錯する所に巨大な立体を幻視したのは、山国町で映画祭を始めた所以である。なので、本映画祭はメジャーへの登竜門的な位置づけとしてのインディーズ映画祭とはやや趣が異なっている。つまり、残念だけど現段階で、気骨あるインディーズ映画作家諸兄姉に、即金に繋がる価値を還元する事はできない。しかしながら、本映画祭自体が共創の現場となり目的地となる事、やがてここに一つの価値が育っていく事、を志している。インディーズ映画作家諸兄姉と山国町、関わった方々、映画を愛する皆に具体的に還元できる価値を確立していかなければならない。
映画とは、時代に応じた先端テクノロジーとそれにインスパイアされては進化してきた魅せるための技術により、観客を夢の世界へと誘うものだった。自身の記憶を辿るならば、30年ほど前、当時最先端のコンピューターグラフィックスをふんだんに使用した事で話題となった『ジュラシック・パーク』を観て受けた衝撃は大きかった。しかし、それすらも、1895年、リュミエール兄弟による始源の映画が当時の観客に与えた衝撃に比べると遥かに見劣りせざるを得ないだろう。映画誕生のインパクトは徐々に色褪せていき、映画が先端テクノロジーのショーケースとしての役割、見世物小屋的な役割を果たし得た時代は凡そ過ぎ去りつつある。製作費数百億円の大作映画であろうが、現代の目の肥えた観客を新しい夢の世界へと誘う事は難しいのではないだろうか。であるならば、今、映画を観る楽しみは何処にあるのだろう。本文がその答えに換わるものになればと思う。
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